2017年4月 1日 (土)

新年度のスタート

新年度(平成29年4月1日)のスタートの日となりました。世界の歴史をさかのぼると一年の始まりを4月1日にしていた国があり、大陸諸国が古い習慣を変えた後もそれが存続していたイギリスを真似た明治政府が日本に4月1日を年の始まりとする制度を導入したとのこと。------

日本は複数の制度が併存していても矛盾を感じない国民性があり、何とか使い分けている。神道と仏教でも習合させて何とも思わない。賢いのかそうでないのか不思議なところがある。

2017年6月29日 (木)

北円堂の秘密・その1(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

1 「そもそもの始まり」

古都大学准教授上津京介(かみつきょうすけ)は専門の理学部では万年准教授であったが専門外の歴史学については専門家よりも造詣が深く自負心も旺盛だった。大学が春休み中のとある日のこと、退屈だったせいか、ふと年下の親友の一人、史美(ひとみ)の歴史学教室を覗いてみようと思い立った。それがそもそもの始まりであった。史美は研究室の中で珍しく本を積み上げて何かに取り組んでいる風であった。京介の顔を見ると史美は独り言のように「分からないのよね不比等って」とつぶやいた。「ふひと」って言ったのかと京介も豆鉄砲を食らったハトのように面食らった。

京介の歴史好きは時代区分としては中世以降でありどちらかと云うと古代はよく知らなかった。京介の理解は日本の歴史の始まりは古事記に描かれた神話の世界そのものであり、神話以外の何ものでもなかった。また日本書紀に記された古代史は六国史につながり古代律令国家の動静が編年体で逐一叙述されているものと考えていて面白くも可笑しくもない古代国家の記録でありこれを何の手がかりも無しに机上で読み解いたり深読みすることはむしろ時間の無駄であるとさえ思っていた。

近年考古学の進展が著しくて出土品が物的証拠として少しは紙上を賑わしているけれども邪馬台国論争でさえいまだ決着を見ていないではないかと、この日本歴史の古代以前の解明が大層遅れているとの認識は京介の学生時代からのものとそう変わらないのであった。京介が「何か困りごとかい」と問いかける前に史美から「ねえ手伝って下さらない。上津先生!」といつもは「京介さん」と呼ぶところを丁寧に先生呼ばわりしてきた。一回り年下の自分と同じ未年生れの史美を歴史的興味で相手をしている時は京介にとっては一番気の許せる時間でもあった。

北円堂の秘密・その2(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

京介自身の専門である理学部の物理学の世界においては旧帝大に残ったり国の研究機関に勤めるしか自身の育んできた科学的真理の探究心を満足させることは出来ない時代となっていた。湯川博士のノーベル賞の頃のように紙と鉛筆だけでは何も発見出来はしない。さらには京介のように地方大学に追いやられた身にしてみれば出身大学に戻れる当てはほぼ無くなりかけていた。このままこの古都大学で同じ研究室の老教授が退官されれば跡を継いでそれで大学教授となり、目ざとい研究も出来そうにないと思っていた。まあ数学なら古都大学にも昔高名な先生が居られたそうであるが、紙と鉛筆で考えることが出来るので世界的研究も可能だろうけれど、そこまでの天才肌は京介にある訳もなく、京介自身よく自分のことを分かっていた。

暇を持て余した訳でもないが急に思い立って史美のところに行こうとしたのは朝の電車で史美の後姿を発見し追いつこうとしたが振り切られた形となっていたこともある。何だかいつもの史美とは違って朝から大層忙しそうに大学の構内に入って理学部より近い文学部の歴史学教室にあたふたと滑り込んでしまった。そのまま後を追いかけようかと思ったのであるが京介自身の理学部の准教授室でサイフォンコーヒーでもまず飲むことにしたのである。京介は無類のコーヒー好きでもあったので史美の出してくれるインスタントコーヒーには少し閉口することが実は多かったのである。勿論、人の好意を受けられない京介ではないのでそのような時にいやな顔一つしたわけではないのだが。

自分でいれたコーヒーを味わいながら昨日放っておいた郵便物に目を通した。所属している学会からの定期購読雑誌や論文投稿案内、それに海外での国際学会への参加のお知らせの類ばかりである。助手の時代、准教授になる前なら年間の投稿論文を自分にノルマとして課して今よりは少しは柔らかかった頭を駆使して教授の集めてきたデータを元にして論文製造機械のような毎日を送っていたこともある。それも何年続いたことだろうか。10年前に在籍していたその旧帝大に属する大学の講座を担当する教授に呼び出されて今の古都大学の准教授に行ってみないかねと云われた。てっきり残って講座の准教授となりその教授の後釜になれるものと思っていたので何年その地方大学へ行けばよろしいかと教授の顔をながめると教授曰く「君もそろそろいい年だから結婚もしなくちゃいけないだろうし古都大学准教授なら生活も一応贅沢はできんが二人で暮らせるようになる。いい話だと思うがね。」とのこと。数日考えさせて下さいとは云ったものの結局アパートに帰って頭を冷やして考えてみると自分より3年後輩の助手が教授のお気に入りとなったようで、どうやら自分はお払い箱の定めであることが分かった。飲めない酒を食らって未だ酔いの残る目つきで翌日教授に「先のお話お受け致します。」と回答したのだった。教授は相好を崩して「良かった、良かった。」と喜んでくれた。私の物理学界における将来性を心配されてのことであったのか、それとも出来の悪い助手を追い出して出来の良い助手と入替えられることを「ご自分にとって良かった」と云っておられるのか判然としなかったがともかく私はこの古都大学に来て丁度10年になるわけで、まあ水が合っていたのかどうか、万年准教授のままではあるがぬるま湯の中で物理学界としてはもう古くなった紙と鉛筆の世界で論考をひねっている。

途中のコンビニで買ってきたパンも食べ終わりコーヒー茶碗を小さな流しのボールの水に浸けてしまうと、途端にすることが無くなってしまった。旧帝大の教授は朝来ると直ぐに助手を呼びつけて仕事を云い付けるのが常であったが、古都大学では准教授になったからだろうか知らないが同じ教室の教授に呼び出されることはほとんどなかった。何かにつけ勝手に私の時間を刻むことが出来た。学生を教える講義の時間と単位を与えるための年2回の試験と卒業研究の指導というようなありふれた定型作業をすることは京介には簡単なことであった。旧帝大ほど質問攻めにしてくる学生もいないしその意味では毎日が刺激のない日々として漫然と過ぎてゆくのであった。入学試験の終った春休みのこの頃は本当に退屈なのであった。

紙と鉛筆で物理学の世界に立ち向かうことの無力さを思い知ってきていた京介であるが、退屈の虫が騒ぐと困るのであった。何かくるくると回転して問題を求めて探し回る京介自身の脳みそに何かテーマを与えてやる必要があった。それもあたりさわりのない何か人畜無害のテーマを。理学の分野と違って人文分野のテーマは京介からみると、とても曖昧で勝手でまあ一言で云えば科学的でないように思われた。その専門分野の大御所が声を大きくすれば皆だまり込んでしまうような非科学的な世界のように思われた。だがしかし、門外漢からすると評論しやすく発言しやすいテーマであり解決したところで新しいその知見が新産業を生み出すなんてことは全く有り得なかった。誰に迷惑を掛けるでもなく興味さえあれば「ああでもない、こうでもない」と想念を巡らすことが出来た。

しかし史美にとっては歴史学は一応「めしのタネ」であり、おろそかには出来ないのであり、史美の将来人生がまさに秤に掛けられているのであった。

「上津先生、頂き物の上等のインスタントコーヒーがあるので用意いたしますね。」といつもとは言葉もていねいであり、何かを企んでいそうであった。

2017年6月30日 (金)

北円堂の秘密・その3(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

京介は入口のソファに腰掛けると、前のテーブルにも専門書が何冊か積み上げられていた。何だかいつもの史美にはないピリピリした空気が感じられた。テーブルの本を何冊か避けたところにポットの湯を注いだコーヒーカップを二つ持ってきて史美はテーブルの向いに座り込んだ。折角だから頂戴するかと先程自室で飲んだサイフォンコーヒーのことは忘れてインスタントコーヒーのカップに手を伸ばそうとすると史美が興奮した面持ちで話し出した。「私の別れた旦那が奈考研にいるのは知っているでしょう。」「今でも専門家として互いに尊敬し合っている部分はあるのよ。」「今、奈考研では興福寺の北円堂を発掘調査しているんです。トップシークレットなんですが、勿論報道にも洩らしてはいない大変なものが見付かったと云うのよ。」「ところがそれを実際のところどのように解釈してよいのか、奈考研では半年近く内部で検討を加えたらしいのですが、如何せん考古学分野の専門家が大半で文献史学的な力量のある人が少ないそうなんです。そこで、こっそりと奈考研にゆかりの深い大学に相談を持ち掛けて来たって訳なんです。もし古都大学の私がこの出土品の意味するところを解明できれば少なくとも私は上津先生と同じくこの古都大学の准教授にはしてもらえると思うの、私にとっては今春舞い込んだビッグチャンスなのよ。それで是非是非上津先生のお力をお借りしたいところだったのよ。今日、手がすいたら私から上津先生のお部屋へ伺おうと思った矢先だったのです。そしたら上津先生の方から来て頂きまして手間が省けましたわ。」

京介はだまって持ち上げたコーヒーカップを一口飲むとテーブルに置き、「それで具体的にはその問題はどういう代物なんだい。何か資料のコピーでもあるのですか。」史美は少し考えていたが、「上津先生これは絶対に口外してはならないこと、約束してね。」「奈考研の別れた夫の将来にも影響するのですから。」と強く云った。京介は「じゃそんなに大切なことなら、私は知りたくもないしそんなことは知らなかったことにして、コーヒーを頂いたら自室に帰ることにするよ。」すると史美は「ごめんなさい。京介さんを疑ったりして恥ずかしいんだけど、それ程、今回のテーマは私たち歴史学教室の者から見ると大きな意味があるように考えられるのよ。」「これをご覧になって下さい。」と史美は大事そうに何かの写真のコピーをテーブルの上に拡げた。それは表と裏との2面写真のようであり、丁度、墓誌の銅板であるかのように文字が刻まれていた。「当初、可なり錆びているので奈考研では判読は困難な部分が多くて出土品の文字情報への期待は余りしていなかったそうなんだけど、錆を少し落としてみると、僅かだけど、判読可能な文字列が浮かび上がってきたということなのよ。」「ところがその文字列の前後は不明であり、取りあえずその読み取れる文字だけを手掛かりに何か分かることを判読してもらえないかという相談なのよ。」「意外と簡明な文字のくせにこれが何を意味するのやら。」「にらめっこをここ数日していたということなのよ。」 京介は先程自室に帰ると云ったことはとっくに忘れて、その資料写真をのぞき込んだ。

「先帝 帝紀 旧辞 国記 ○○ 此地  秘  -----」と表面に彫られており、裏面には「  養老 ○四年○○八月○○日-----」とこちらは幾分明瞭に刻まれていた。京介はこの「養老48月 日」が何を意味しているのかなと考えた。それを史美に尋ねると「これは簡単に分かったのよ。続日本紀によると藤原不比等の薨去の日と云うことなのよ。だからこの銅板は不比等の墓誌あるいはその生涯を顕彰して作られたものということまでは考えられるのよ。」

「ところでこの銅板はどこで出土し発見されたんだ。」と京介は聞いた。「先程も云ったように別れた旦那の勤めている奈考研が現在興福寺の北円堂の境内を発掘調査しているんだけど、第2次大戦中、東向商店街の老舗の中華料理店さんが古都奈良の空襲に備えて近くの奈良公園の一角と云うことで当時は板塀もなかった興福寺北円堂の境内に防空壕を掘ったらしいのよ。今回の奈考研の発掘調査では防空壕の埋め戻されたところがやたらにあったそうだけど。防空壕を掘ったときの様子を東向商店街の古老に聞き込み調査をしたって云うの。そうしたらおそるおそると云うか一軒の老舗の中華飯店のご主人が亡くなった父の遺品の中に錆びた銅板があった。今でもあると思うと云って、店の蔵から持ち出してこられたのが写真のこれで、桐の箱に入れて大事に仕舞われていたそうです。そしてその桐箱の書付には昭和18年秋、北円堂の周りにて防空壕を掘った際に見付けしものと記していた。中華店のご主人は、考古趣味のあった父が戦時中のこととは言え秘蔵していて申し訳なかったと、錆びてそれでも肉厚のある可なり重い銅板を奈考研に寄託されることになったということです。奈考研では去年の夏にこの銅板を預かって暫く発掘調査に勤しんでいたそうですが、目ぼしいものは出土しなかったそうです。それで漸く錆び落としを始めたのが秋も深まった頃、文字の列の発見は年明けそして今となっているのです。」

京介は一つ気になって史美に尋ねた。「桐箱の書付には他に何か出土の際の様子などは書かれていなかったのかい。」すると「その書付のコピーもあるわ。」と脇から差し出してきた。その文面には「銅板を発見した後、防空壕をもっと深く掘ろうとしたところ大きな柱石のようなものに当ってそれ以上掘れなくなった。周りを掘って平面的広がりを確認すると石は岩盤のように平たくて大きくて北円堂の床下にまで続いているかのようであった。それで防空壕の位置をもっと北円堂から離れた興福寺の経堂跡の方に移して北円堂の境内の防空壕掘りは断念した。」と書かれていた。考古趣味のあった先代はさすがに北円堂は興福寺が一番大切にしてきた場所であったことを思い出したのかも知れないと、京介は根拠は無いが直感的にそう思った。

2017年7月 1日 (土)

北円堂の秘密・その4(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

それで又、史美(ひとみ)に尋ねた。「じゃ奈考研でも北円堂の地下に大きな岩盤というか石室状のものが埋まっていることは判っていると云うのだね。」「そうなの北円堂の直下に至る巨大な石盤のようであり、国宝の北円堂の直下の発掘許可は文化庁から貰っていないと彼は云っていたわね。」「単なる石板なのか自然の岩盤なのか、はたまた巨大な石室があってその上に北円堂が建っているのかも知れない訳だね。」「何れにしてもこの銅板の文字列の解明をした上で改めて北円堂直下発掘うんぬんの話を計画できるかどうか大掛かりなことになるでしょう。でもこのことを報道する前にまず文献史学的にも徹底的に北円堂に祀られたという藤原不比等なる人物の歴史的真実を洗い出しておこうと云うことになったそうなのよ。」「と云う訳で古都大学歴史学教室の不肖バツイチの助手こと私、藤原史美に運命の女神が前髪で私のホッペを一撫(ひとな)でしたのよ。」「ねえお願いだからこの春休みの残り僅かの日数、私の一世一代の研究につき合って下さらない?」と史美は哀願した。

上津京介は理学部物理学科の専攻であり科学的論究においては常に冷静をモットーとしていた。史美に哀願されたところで手伝うと云ったらトンデモナイことになるのはこれまでの経験から百も承知していた。以前なんか大学からの帰りが遅くなるからと研究の中身を手伝うどころか保育園に預けている娘の綾(アヤ)ちゃんを閉園になる前に引き取っておいて欲しいとかの傍若無人の人遣いをする史美であったのだから一度手伝うと云ったが最後、女性の厚かましさには閉口することが世の男性共々よく知っていた。がしかし、京介はこれまでに史美からこれが正念場だから手伝ってと云われて手伝ってきた、結構数々の事例とは何かが違うように感じた。これまでのことなら結局、史美の勘違いであったり、史美の代わりのレポート書き程度だったのだが、今度は大きなヤマであり、手応えがズシリと感じられるような気がした。史美の一人合点ではなくて、そのバックには奈考研がいるのだ。これは面白い。漸く京介の春の退屈気分を吹き飛ばしてくれそうな歴史学上のエポックメイキングになる糸口が眼前に現れた気がした。「史美くん私で良ければ喜んで参画させて貰うよ。」ついに京介は協力をすることに快諾することとした。

「では早速だが、発掘現場を見ておきたいのだがね。」と京介が云うと、「丁度良かったわ、今日の午後、娘のアヤを別れた夫に面会させる日になっているので、今から彼に電話して北円堂の発掘現場を見せて貰えるように頼んでみるわ。」

史美が奈考研の彼に連絡のため自席に戻ったのを幸いに渇(かわ)いた喉(のど)を潤すべく漸く冷めたコーヒーカップを口に運んだ。

史美は話が付いたようで、「じゃ早速だけど午後2時に近鉄奈良の行基菩薩の噴水広場で待ち合わせとなったの。発掘調査は午前中だけで、午後は現場には誰もいないそうなので好都合だそうよ。」と漸く彼女も飲み残したコーヒーを飲み干した。「じゃ私は図書館で少し藤原不比等のことでも拾い読みしておくことにするか。」と云って京介は史美の歴史学教室を後にした。

2 「北円堂にて」

京介はあの後すぐに大学の図書館に向かい日本史の飛鳥時代から奈良時代の棚の本を物色した。何れの本も藤原不比等の名を探すのは至難の業(わざ)と云わざるを得ない程登場回数が少なかった。やや疲れて少し遅めに学食で昼食を済ませ、京介はスプリングコートを羽織って待ち合わせの近鉄奈良の噴水広場に向かった。午後2時少し前だったが、もう史美とアヤちゃんと別れた彼の3人が仲良く話をしていた。道行く人は誰でも離婚している家族とは思えない程の仲睦まじさに見えた。そもそも史美と彼の離婚の理由が京介には理解できないものであった。3年前に別れたその理由と云うのは将(まさ)に考古学と文献史学の熱い闘いというかどちらが日本歴史を塗り替えるような業績を先に挙(あ)げられるかを競うためには一緒に暮らしていられないと云うものであった。一回り年上の京介には史美たち同年夫婦の離婚と云う選択は一体何なのかさっぱり分からなかった。幼稚園1年のアヤちゃんは史美が離婚していることなど全く分かっている風ではなく二人に甘えながら噴水の周りで遊んでいた。京介が近付いていくと史美は彼に「あなた初めてよね。古都大学理学部の准教授でいらっしゃる上津先生です。」「お噂(うわさ)はかねがね家内より聞いておりました。お手伝いして下さるそうで心強いです。」と彼はその日の天気のように上機嫌であった。「では少し前置きのお話でもしてから現地に参りましょう。」と彼は東向商店街のとある喫茶店に行き付けにしているかのように入店した。大人はホットコーヒーでアヤちゃんはアイスクリームの注文をすると彼はアヤちゃんを膝で遊ばせながら「考古学の発掘調査のことについてなんですけどね。文化財保護法が制定されてから建設工事の前に埋蔵文化財調査のための発掘調査をしてきたんですよ。これが9割方でしてね。今回のように建設工事と云っても北円堂の周りに回廊を復原しようと云う程度のものなので、どれ位の範囲を調査して良いものやら、分かりませんでね。」「板囲いを外してその中を掘っていたんですよ。史美からもう聞かれたでしょうが、例の銅板の出土したという戦時中の防空壕の掘り跡までは掘り進めることが出来たんですよ。」「ところがね。礎石というか岩盤というか石室かも知れない平面的に巨大な石が地表面から数メートル下に眠っていて、どうも北円堂の直下にまで広がっていることが推測される事態となってきたのです。」「最初も云ったように北円堂そのものを解体修理でもするのなら礎石を避けてさらに地下深くまで掘ることが出来るのですけれど回廊復原工事の名目なので、そこまでは出来ません。また北円堂の解体修理は一度は行われているので当分ないそうなのです。」「奈考研でも銅板の発見がなければ少し岩盤があったけれど特に目ぼしい出土品は無いとのことで発掘調査を終えるところだったのですが、奈考研では石棺とは思わないのですが何らかの石室が北円堂の地下にあると考える意見の者が多くて奈考研の所長の案で密かに知り合いの文献史学の識者に銅板文字列の読解の糸口を探して貰うように手配してみてはどうかと云うことになって、僕は史美に早速に調べてくれないかと要望した訳なんです。他の奈考研所員もそれぞれに信用できる知り合いの伝(つて)でこの話を進めているところなんです。それで春休みなら講義も無いしどこの大学の歴史学教室も暇だろうと思った訳です。」「これで何か凄いことが発見されれば秋の考古学会にも発表出来るし何かと独立法人化で国の予算取りが難しい昨今考古学のファンを唸(うな)らせることになれば奈考研の存在意義も高まって私たちも更なる次の発掘調査に邁進できると云う訳なのです。」

2017年7月 2日 (日)

北円堂の秘密・その5(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

彼が一頻(ひとしき)り喋(しゃべ)り終わると、おとなしくアイスクリームを食べているアヤちゃんの給仕をしながら今度は史美が「私だって銅板の文字列の意味を読み解ければ史学会にどうどうと発表出来るはずです。奈考研との共同研究としてね。」

「これまでは考古学会と史学会はあまり仲が良くなかったんだけど、今度はその仲を取り持つ重大な発見に繋がるかも知れないんですから。」

京介から見ると史美と彼は元夫婦というよりも共同研究者といった雰囲気が強くにおい立った。彼はまたこうも云った。「考古学を埋蔵文化財の発掘と云う地味で消極的で何も言葉を発信しない学問に終始させたくはないんです。是非とも文献史学にバトンタッチ出来る出土品を目指して発掘をもっと旺盛にやりたいんです。石器時代や縄文時代を扱う考古学では決してないんです。奈考研は飛鳥・白鳳・奈良時代の歴史的解明が発足時からの使命なんですから。」とまくし立てた。まあ、この文系の学問分野の人たちから距離を置く京介にとっては彼らのように生活いや人生を賭けての話ではないが、野次馬的興味は少しばかり蠢(うごめ)き出したのである。

アヤちゃんがアイスクリームの空の皿を突(つつ)いているので史美は「今日はこれでおしまい。ちょっと奈良公園のパパのお仕事のところへ行きましょうね。」とアヤちゃんの手をハンカチで拭(ぬぐ)って席を立つ用意をした。彼が先に立って支払いをし、京介は奢(おご)ってもらう形になった。コーヒー一杯でも恩は恩である。とにかく何か手伝わなきゃなと無言の何か圧力のようなものを感じた。

「北円堂はここから直ぐなんですが上津先生はご存じですよね。」「いや西国三十三所九番札所の興福寺南円堂はもちろん昔から知っているんですけど北円堂なるものがあるというのは史美さんからこの件を聞いて初(はじ)めて認識したところです。」「そうでしょうね。修学旅行の児童や生徒にしても興福寺という寺の名前さえ知らされずに猿沢池から五重塔を眺めて奈良公園に同化している興福寺はいつも砂煙をあげて行列で通過するところなんですね。止まったと思えば五重塔をバックに記念の集合写真を撮るだけでね。そして、奈良の修学旅行の思い出としては奈良公園の愛らしい鹿と大仏さんと大仏殿の柱くぐりだけが皆(みんな)の脳裏に不思議に克明に刻み込まれるのです。」「老人くさい線香のにおいのたなびく南円堂なんか子供は好きじゃないですしね。」と史美が彼の言葉を補って云った。「まして北円堂など知る訳がないということですか。」と京介は納得させられた。行基菩薩の噴水広場から東向商店街に入り南に50メートル程行くと左に商店街の小さな観光事務所があり東に向かって坂道が見える。観光ガイドではもっと東向商店街を南に突き抜けて三条通りに出て、興福寺の表玄関となる猿沢池の側から南円堂への石段を登ったり南大門跡への石段あるいは五十二段の石段を登って五重塔前に出るルートを推奨している。しかし今回は観光でもなく直接に北円堂に至る坂道を通ることになった。「この道はね、地元の観光ガイドさんの専売特許にちかくて中々趣のあるルートなんですよ。」「奈考研の発掘調査でバリケードが雰囲気を少し損なっているけれど、それでも抜群の景観を四季折々に楽しめる穴場なんです。」「鹿も良くここまでやって来ますしね。」あっと言う間に「奈考研発掘調査中」の札が掛けられているバリケードの前に立って彼は持参した鍵で出入りの扉をそっと押し開けた。「桜の木やイチョウの木が数本あったのですけれど発掘調査の邪魔になるので残念ですが切らせて貰いました。」

「北円堂は南円堂と同じ八角円堂であり、位置関係が南北に並んでいるため興福寺では南円堂、北円堂と呼び習わしてきた。北円堂は藤原不比等をお祀りする廟堂として不比等の一周忌に元明太上天皇と元正天皇が長屋王に命じて建立させたお堂であり、興福寺では創建者である藤原不比等ゆかりのお堂として一番大切にして来ており、春秋の特別開扉の時にしか内部を公開していない。幾度も火災や戦火に焼失したけれどその度に再建されており、現在では興福寺の堂宇の中では一番古く鎌倉時代からの築年を有している。」

彼の話を聞きながら発掘現場の掘り返したり、埋め戻したり、ブルーシートで覆(おお)ったりしている中を丁度一周する形で北円堂の回(まわ)りを歩いた。数点発見された瓦の欠片(かけら)は鑑定しているところだがそれ程重要なものではないらしく何度か火災を受けて焼け落ちたことが分かる程度らしいとのこと。発掘現場を見ても余り要領を得ない京介が彼について歩いていると彼がとあるブルーシートの前で立ち止まった。史美はと見るとアヤちゃんの手をぐっと握り締めてもうすでに身構えているような臨戦態勢であるように見えた。彼はブルーシートを押さえる石をとり、少しめくった。シートの下にベニヤ板があり、これは少し重そうであり、京介も手伝って横にずらした。そこには2メートル程掘り下げた穴が開いており底には10センチ程の水が溜まっていたが、先程の話に聞いた石室の天井石であるかの自然の岩盤ではなく表面を平たく削(けず)った石の表面が見えていた。「もう埋め戻したんですが、その先の数か所でも同じ石の表面が見えたので恐らく北円堂の直下まで達している大きな石造構造物がこの地下には眠っていると奈考研では睨(にら)んだ訳なんです。」と彼は云った。京介は思わず一つ質問をした。「じゃ東向商店街の老舗の中華店の先代が戦時中、防空壕掘りをしていて例の銅板を発見したというのはこの辺(あた)りだったわけですか。」彼は「防空壕で荒らされた掘り跡は簡単に確認できたので調べてみると他は2メートル下まで掘られていなくてどうやらこの地点で発見されたと奈考研は推論しています。」と答えた。

一方、史美は発掘現場については既に先刻承知のようでアヤちゃんと遊んでいた。

「これ以上見ていても何も分からないでしょう。石面に文字が刻まれているようでもないし。」と彼はベニヤ板を元に戻しにかかった。「ちょっと待って下さい。」と京介は質問したくなった。「この場所は北円堂の建物の南側ですが北円堂の境内の東西南北を同じように発掘調査したのですか。それで他3方向の東西と北方向でも2メートル程掘り下げると石室の天板のような巨大らしき礎石に突き当たるのですか。」彼は「おっしゃる通り北円堂を挟んで対角線方向の位置を掘り下げる調査はもちろん致しました。やはり同様の礎石にぶつかることを確認できたので恐らく北円堂は巨大な石造物の上に版築の土盛りをして石造物を隠した上で建立されていると考えたのです。」「中華店の先代の戦時中の防空壕掘りでも大層固い地盤だったそうで漸く2メートル掘れたと思ったら巨大な礎石にぶつかって仕舞って、東向商店街から一番近い奈良公園の一角と云う立地にある北円堂の境内は諦めてもっと奈良公園の奥の方に防空壕掘りの位置を変更したのだそうです。」「このように現在の中華店の主人が先代から聞いたことがあったそうです。」

「地下の巨大な石造構造物を発掘調査するにはこの国宝の北円堂に影響が及ぶ恐れがあり奈考研では今回の興福寺さんの堂宇再建計画の一つである北円堂の回廊復原工事に伴う埋蔵文化財発掘調査という仕事としてはひとまず終えなければならないと考えています。」

仕切り直してどう発掘調査に取り組むかは、現在の奈考研にとっては難題ではあるのです。元々奈考研は平城宮跡の全面発掘調査の仕事をずっと続けておりますが、終了するまでには人や予算の都合もありますが、後何十年も掛かると予想されています。従って平城京の外京に当る旧興福寺のあった奈良公園一帯の発掘調査となると何時になることやらと思われるのです。それでも世界遺産の指定を受けてからは寺社も発掘調査には前向きに協力の手を差し伸べて下さっており奈考研は幸いにして大忙しと云ったところなのです。でもこの北円堂の発掘調査は奈良が平安時代以降、南都と称されるようになる以前の古代の平城京そのものの外京の司(つかさど)っていた役割を解き明かしてくれるのではないかと、これは奈考研の所長が云うのです。それで今回の取り組みは所内でだけ鳩首審議するのでなく史学それも文献史学の俊英たちの意見を交えて取り組もうということになったのです。どうしても考古学者は土いじりをして暑さ寒さの中、しんぼう強く発掘活動はするのですが、それに体力を使いすぎて出土品が見付かってからの妄想たくましく文献史学に物申すと云うところまでの力量が不足していたと思われるのです。もうそろそろ日本でも、日本の古代の歴史の科学的解明が進んでも可笑しくないくらいに出土品自体は増えているのです。平城宮跡の出土木簡なんか地下の正倉院とも云われる程で読み取れる文字列は断片的ですがそれなりに意味の分かるものも出てきています。平城宮の直ぐ隣ですが「イトーヨーカドー」のあるところで長屋王の邸跡が判明したことは皆さんも良くご存じでしょう。ただ木簡は本当に断片的文字列に終始するものが多いのは事実でして今回の銅板の文字列がもう少しはっきりとして読めて解ければ相当な内容のことになるのではないかと期待されるのです。南田原で発見された太安万侶の墓誌など簡明な記述ではあるけれども大層重要な意味を持つ訳です。一昔前なら太安万侶は実在しなかったという学説までがまかり通っていたのですが、これなど墓誌の発見で吹っ飛んでしまいました。

彼の話を聞いているうちに、結構時間が流れたようで南円堂脇の鐘楼から午後五時の鐘の音が聞こえてきた。史美とアヤちゃん、それに彼は夕食を共にするとのことで、ご一緒に如何ですかと誘われたが別れた。家族の折角の水入らずを邪魔する訳にはいかなかった。このあと野暮用があると断(こと)わり、3人と別れた京介は一人興福寺境内を散策した。

2017年7月 3日 (月)

北円堂の秘密・その6(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

中金堂の回廊基壇に腰掛けて五重塔を見上げていると暮色と入れ替わってライトアップの光線が五重塔を照らし出し始めた。通年夜間ライトアップされる五重塔の前はこれまでも思索に疲れた時には夜でも散歩に都合が良いのでよく通(かよ)っていたが、北円堂のことはあまり意識することはなかったのだ。

再建を重ねてきた北円堂であるが、本尊は藤原不比等の化身ともされる弥勒如来と云われており今では運慶仏として美術的評価も高く明治期には正岡子規も俳句を詠んでいる。京介は仏教美術にも関心がなかったので余計に北円堂のことは知らなかった訳である。ライトアップされて五層の屋根を力強く支えている木組みを見上げながら司馬遼太郎の随筆に「興福寺五重塔は美的センスに欠ける」と書かれていたことを思い出していた。見慣れるとそうでもなく愛着の湧いてくるもので興福寺五重塔は京介の頭の中で古都奈良のイメージを代表していた。少し寒くなってきたのを切りにして、京介は五十二段を降り、これもライトアップされている猿沢池を時計回りに一周して、三条通りの南都銀行の手前から東向商店街に入り、老舗の中華店で夕食を摂(と)ることにした。東向商店街には数軒の中華店があるのだが忘れずに覚えていた店名の中華店を難なく見付けて入店した。ご主人に自分でも出土の経緯(いきさつ)を聞いてみたいと思ったが、今日は考えも纏(まと)まっていず、急いではお困りになるだろうと思いそれは止めた。

古都奈良の中華店とは遠方の観光客などは不思議に思われるかも知れないが、奈良の名物料理と云っても有名なものはあまりないので、関西圏とすれば神戸の中華街の延長上に古都奈良でも中華店の営業が成立してきたのであるようだ。ともかく奈良は明治に開国した日本にとって富国強兵を目指して軍備を整えるために外貨の獲得は最重要課題であり、絹の輸出と共に東京の日光・箱根と並んで京都・奈良の観光に力を政府は入れて来たそうである。外国人観光客の誘致のために奈良ホテルは鉄道省が建てたそうである。

結構好物である「カニ玉」や「エビチリ」を摘(つ)まみながら、京介は「さてどうしたものだろうか」と頭を巡らせたが、老舗の中華の味に占領された脳が回転するわけもなく、今日はこれまでと無理に考えることは止(よ)すことにした。頭も少しは休めてやらないと良い知恵は浮かばないものであることを京介はよく知っていた。結果が出るかどうかは別にしても。

3 不比等の生涯

明くる日は史美が藤原不比等について少し講義してくれることになっていた。午前9時からと時間指定を受けた京介は教養棟のH101号講義室に向かった。9時丁度であった。講義室は広すぎる感があるが、黒板とか教壇とかの設(しつら)えが手っ取り早く藤原不比等の温習(おさらい)をするには向いているのだろうと京介は思った。まだ鍵の下(お)りている春休み中のため、鍵を取りに行っているのか史美はやや遅れてやって来た。

「ごめんなさい時間をこちらで決めておきながら」と云いつつ小振りの講義室の扉を開けて天井照明を前の方だけ点灯した。

俄(にわ)か仕立てではあったが、史美は京介一人を受講生として教壇から、まだ助手の身であるが元気よく藤原不比等についてその生涯のアウトラインを話し始めた。「藤原不比等と云う人はね、あの有名な藤原鎌足の次男として西暦659年に生れているね。そして720年に没しているので数え年で云えば62歳まで生きた人物と云うことね。最後は正二位右大臣にまで登りつめているわ。勿論、追贈位は太政大臣を貰っているわ。諡(おくりな・贈り名)は淡海公・文忠公と色々あるの、恐らく淡海公は近江の国司でもしたことがあるらしく、不比等が近江国と何らかの深い係わりを持っていたことが推察されるのよ。また、文忠公の場合は大宝律令制定に係わったことを褒(ほ)め称(たた)えているのだと考えられるわ。律令と云うのは膨大な法律の六法全書のようなものですからね。残念ながら大宝律令の本文は残っていないのだけれど、後の養老律令とか平安初期の遺文に結構、断簡として残っているの。文献史学的に藤原不比等を評するならば第一は「ミスター律令制度」といったところかしら、日本の古代律令制度の屋台骨をしっかりと構築した中心人物というところね。隋唐の律令を真似て古代日本に律令制を定着させるには、先ず武力による日本の平定が第一ではあったんだけど、律令制度を根付かせるには文字の読める人、即ち今で云う官僚が必要とされたのよ。だから、律令の発足と官僚の発生は同時とも云えるわね。藤原不比等はその総元締めであり、これも今で云えば総理大臣というところかも知れないわ。勿論、総理大臣と云える期間は710年に平城遷都して720年に没するその最後の10年間ということになるけれど、可なりな長期政権だったということになるのよね。また、平城京に遷都する前の藤原京でも大納言クラスのうちから参議として何くれとなく活躍していたようです。更に更に遡(さかのぼ)るとその前には持統天皇の側近として若いうちから持統天皇の30数回に亘(わた)る吉野行幸にも全て随行していたのではないかと考えられるの。その証拠としては日本初の漢詩集である懐風藻に藤原不比等の吉野に遊ぶという詩が残されているのよ。」

「これでアウトラインは話が終わったようなところだけど、次は少し順を追って藤原不比等の生涯を追跡しておくわ。先ず藤原不比等の父親は藤原鎌足と先程云ったけれど天智天皇(てんじてんのう)の落胤説もあるわ。身籠(みごも)ったままの妃を臣籍降下させて藤原鎌足が天智天皇から貰い受けたという話があるのよ。勿論、日本書紀に書かれているわけではなくて、興福寺縁起などにふれてあり母親は鏡大王(かがみのおおきみ)という名前なの。育ての母親が誰だったのかという線からすると藤原鎌足の実質的な正室が車持君の娘であったことから、一般的には車持君とされてきたようよ。また、幼い時に中国の歴史を深く知る人物の田辺史(たなべのふひと)という人の家に預けられていたので、史(ふひと)という名前を継いだのではとも考えられており、その場合の育ての母親は田辺史の奥方ということになるのでしょうね。序(つい)でに云っておくと、藤原氏のような家柄であればそれこそ家の歴史を示す書籍があっても可笑しくないのでして、実は藤氏家伝(とうしかでん)書というものが存在するのです。がしかし、誠に残念なことに藤原鎌足・伝はあるのですが藤原不比等・伝が無いのです。藤原不比等の孫に当たる藤原仲麻呂が編纂させたので藤原不比等・伝が無かった筈はないのであるが、無いのです。しかし、藤原鎌足・伝は残されているので藤原不比等の生れた時代の状況は、それから読み解ける部分も少しだけれどあるわ。まあ、父親の策士としての活動は日本史においては、良い人なのか悪い人なのか賛否両論で、未(いま)だに結着が付いてはいない問題があるのはご存じでしょ。そう、蘇我氏滅亡を天智天皇と共に企てたのって藤原鎌足と考えられており、結局後年、藤原不比等の代になってみると、かつての蘇我氏のポジションに藤原氏が成り替わったかのように見えるのよね。蘇我氏が天皇を蔑(ないがし)ろにしたとか日本書紀には書かれているけれども、実際はどうだったか藤原不比等が父親の藤原鎌足、否(いや)実の父と思った天智天皇の陰謀を正当化して書いたとは十分に考えられるのよね、まあ証拠はないんだけど。」

2017年7月 4日 (火)

北円堂の秘密・その7(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

「それから藤原不比等は藤原鎌足の次男とされており長男に真人(まひと)がいるのよ。藤原真人は幼いうちに遣唐使の学問僧として唐に送り出されてしまうのよ。67年在唐して日本へ帰国する時は定恵と名乗っているの。実は藤原真人にも落胤説があって、当時藤原鎌足が中大兄皇子と共に仕えていた孝徳天皇の息子だったと云うんです。この定恵は帰国して直ぐに暗殺されたと史的には解釈されているけれど、藤氏家伝・書では弟の藤原不比等と共同して父・藤原鎌足の墓所を定めたり今の談山神社に祀ったりしているのよ。また、東国の車持氏の領国に至る道中の山梨県の山中の温泉宿には定恵の発見した湯治宿と伝わるところもあるようだわ。ただ、定恵は表には全く出て来なくて藤原氏の2代目は結局、藤原不比等ということになるには間違いのないところですね。」

「次に生誕地とはどこかに移ると、父の鎌足は今の明日香村の北部とされ、産湯の井戸も残っており、藤原不比等の生れた西暦659年ならば中大兄皇子と行動を共にしていた藤原鎌足の居場所は飛鳥京ということになるので、不比等も父・鎌足の生地に近いところで産湯を使ったと考えられるわね。この飛鳥の地で幼児の時代を過ごして、西暦667年に天智天皇が近江の大津京に遷都してからは、父・鎌足に随(つ)いて近江に移ったんでしょう。多分物心が付いたのは近江国の大津京の家であったのでしょうね。贈り名の一つが淡海公ですから、後年余程藤原不比等は近江国を自身の出身国のように思っていたようですから。近江には鏡女王の名に由来する鏡山とか鏡神社が今もあるし、不比等が実の母・鏡女王を慕う郷愁のようなものが感じられるわね。今の彦根城が金亀城とも別名されるのを知っていますか。金亀の名前は古代からのもので、藤原不比等が近江国の国司をしたときに彦根城の観音台に住んだとのことで、子の房前(ふささき)が黄金の亀の背に乗った聖観音を本尊として当地に一寺を建立したと云う伝説があるの。また近江八幡の日牟礼(ひむれ)八幡宮には持統5年(691)に参拝した藤原不比等が32歳頃に来て詠んだ和歌天降りの神の誕生の八幡かもひむれの杜になびく白雲が残されているわ。古代でも人間はやはり物心(ものごころ)ついた頃に見た風景の地に多分郷愁を抱くんじゃないかしら。藤原不比等にとっての故郷(ふるさと)はきっと近江国だったんだろうと私は思うわ。それと唐突だけど天皇の系譜が近江の息長(おきなが)氏の血縁との説も関係ありそうだけどこれは気にしないでいいわ。」

「斉明5年(659)に飛鳥に生れた藤原不比等であるけれど、ひょっとすると鏡女王の里とも考えられる近江国で生まれ育てられていた可能性もあると思う。古代は母系社会なので父親が活躍している地に必ずしも一緒に居たわけでもない。また逆に戦(いく)さにでも妃を連れて行く時代だから、同じ場所にずっと居るわけでもない。とにかく貴種であれば列島を子供の頃から縦横に移動していたとも思われる。大津皇子の大津は斉明天皇の新羅遠征軍が九州の那の津に駐屯していた時に母の太田皇女がお生みになったので、その地の“津”の字が付いたと云われているの。」

「藤原不比等に関する飛鳥京での記録も近江の大津京での記録もどちらも何も存在していない。ただ、壬申の乱が勃発したとき大津京にいたとは考えられるのですが、それが養家の田辺史の家なら、河内飛鳥の地であったか、今の京田辺市の辺りであったかと思われるし、山階寺(やましなでら)の父・藤原鎌足の邸に居たのなら京都市山科区になるわけです。壬申の乱では一族の氏長である中臣金が近江朝廷の高官(右大臣)であったため、大友皇子自刃の後、捕えられて死罪となって仕舞うのよ。でも藤原不比等は13歳と若かったせいか、それとも逃げたのか幸運なことに罪には問われなかった。罪人のリストに登場しないことでわかるんだけど、それから16年の長きに亘(わた)り、文献史学の世界には一度も関係者として名が出てきません。漸く持統3年(689)になって31歳となった藤原不比等が彗星(すいせい)のように判事に任命される形で登場するのよ。」

「この31歳から養老4年(720)に62歳で没するまでの30年間は時々正史に名前は勿論登場して、藤原京と平城京の2回の遷都を行い右大臣にまで登り詰めます。また、藤原不比等は艶福家と云えるのかどうか多くの豪族の娘と契りを交わして、後の有名な藤原氏の四家の祖となる息子を儲(もう)けています。」

「中でも少し変わった話が伝わっているのは次男の藤原房前を生んだのは実は香川県志度の海女であり息子の出世のために母の海女は夫の藤原不比等に頼まれて、海神の宝物を採りに云って成功はしたけれどそれが元で絶命したと、かの地には伝説として伝わっています。また長女となる藤原宮子の場合は今の和歌山県の道成寺に近い漁村で生れた絶世の美女で、文武天皇のお后となっています。藤原不比等が壬申の乱からぷっつりと都から姿を隠した時代あちこちで入婿(いりむこ)して子を儲けることが続いたようです。今とは違って、母系社会では都の貴種はその地の豪族にとっては有難い娘の結婚相手であったことでしょう。それを良いことにしてかどうか分かりませんが、藤原不比等はとても広範囲に結果として身内を作っていったことになるから不思議なところがありますね。日本書紀に書かれているように持統朝では女官の県犬養三千代と懇(ねんご)ろになり、三千代は夫(美努王)を離縁して娘を生んでいるわ、光明皇后になるんだけどね。普通なら多くの女性と浮名(うきな)を流せば、女性の敵とされるのですが、藤原不比等の場合はあらゆる不倫行為が全て藤原不比等なら許されるかのようになってしまっていたかの感があるわ。歴代女帝である持統女帝も元明女帝も元正女帝もすべて藤原不比等を憎(にく)く思っていなかったようで、政治的には最も信頼を置いていたと考えられるわ。まあ、男性の“英雄色を好む”と云った言葉が全く当たり前のように思われていた古代世界であり、平安時代よりも遡(さかのぼ)る飛鳥・白鳳の時代だから当然だったとも云えるけれど、まあさぞ藤原不比等は女性の誰が見ても魅力的で母性本能を擽(くすぐ)られる存在だったようですね。ただ、竹取物語に登場する藤原不比等の場合には車持皇子という名だけれど、かぐや姫の難題に答えるべく贋(にせ)の宝物を作らせた職人に代金も払わなかったというとても貴種ではあるが浅(あさ)ましい人物として描かれています。多分この竹取物語を書いた人は藤原氏の繁栄を妬(ねた)んでいた人物で恐らく男性ではないかと思われます。元明女帝などは藤原不比等の没後一年もしないうちに後を追うようにこの世を去るのですよ。元明女帝は草壁皇子の妃だったのですが、早くに寡婦(やもめ)になっていたので、藤原不比等が、夫代わりだったのではと云う説を吹聴する史学者もいる程です。草壁皇子の母親である持統女帝の公認の下でね。藤原不比等って男の人だったら羨(うらや)ましいのじゃないですか、ね、上津先生と名指しされて、一方的にまくし立てられて面食らっていた京介は、漸く一息入れることができると安心した。」

2017年7月 5日 (水)

北円堂の秘密・その8(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

「ところでこれまでのところで何か上津先生からご質問はございますか」と云われて、京介は図書館の一般図書で自分なりに調べたところ藤原不比等という人物の事績は先ずは大宝律令となっていて、他は直接に関与したとは書かれていないので、史美が説明してくれた藤原不比等のアウトラインでも十分にとりあえず肉付けされたような気がしていた。

そうそうと京介は一つだけ質問をした。「さっきの“男として羨(うらや)ましいですか”ってことだけど、何かの本で紫式部の源氏物語の主人公・光源氏のモデルは藤原不比等ではないかと書かれていたことを思い出したけど、どうなんだろう。」「そうね、平安時代に藤氏家伝の不比等伝が残っていて紫式部がそれを読んでいたとすれば当然その可能性が濃厚と云えるでしょうね。」と史美は大きく肯(うなず)いた。「では残りの補足的な話をしておくことにするわ。」「幼少期に養家として藤原鎌足が英才教育を期待して預けた田辺史の家では15歳になるまでに中国古典は粗(ほぼ)読み尽していたと考えられるわ。また、壬申の乱の後、31歳で持統朝に登場するまでの間は、兄の定恵と同じく大唐帝国に渡って、彼の地で実際の律令社会を勉強していた可能性もあるようだわ。興福寺には三種の宝物というのが寺宝として伝わっているんだけど、全部、中国・唐からの渡来品で藤原不比等の妹が唐の皇帝の妃の一人になっていたということで、その妹から送ってきたのが今に伝わる三種の宝物ってことなの。これが送られてくる途中で瀬戸内海まできたときに海神に一つである玉を奪われてしまい、それを先程話した次男の藤原房前の母親の海女が海神から取り返して来るというお話になっているわ。三宝の内二つは今でも興福寺の国宝館にあって海神から取り戻したと云う玉は琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)の宝厳寺(ほうごんじ)にあるというわ。これも藤原不比等がどこかで近江国と繋がりが深かったことを示していると思われるわ。」

「女帝に信頼されていた証拠としては草壁皇子の佩刀(はいとう)を皇子の没後藤原不比等は預かっていて、文武天皇の即位の時に渡しているわ。また文武天皇が没するとまたその佩刀を預かって、今度は聖武天皇の佩刀になるのよ。また用心深い人物であった証拠としては最後まで藤原不比等は左大臣を拝命せずに石上麻呂(いそのかみまろ)にさせておいたのよ。但し平城遷都に当っては石上麻呂は藤原京の留守官としてお留守番にされており平城京には来ていないので藤原不比等の平城京時代(710720)の10年間は完全に右大臣・藤原不比等が政権の第一人者だったと云えるのよ。そして712年の古事記撰上、720年の日本書紀完成も当然その10年間の最初と終わりを飾るべく藤原不比等のこの国を想う気持ちが国の形即ち国体を史書で固める最後の大仕事をしたに違いないと状況証拠が無いけれど今では多くの学者もそう考えているのよ。

「後は、平城京遷都に際して藤原不比等は外京の高台の一等地に厩坂寺を移して興福寺を創建したことと、平城宮の北東部に隣接していた藤原不比等自身の邸跡は不比等の没後暫く住み人無しの状態だったことが万葉集の歌(第3378)に山部赤人により詠まれているので分かるわ、“昔者之舊堤者年深池之水草生家里(いにしえの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり)”というものよ。そしてその地は娘の光明皇后が貰い受けて今は法華寺という尼寺になっているの。当時は光明皇后の慈善事業に使われて施薬院や悲田院の名で歴史の教科書に出てくる有名なお寺だわ。藤原不比等の考古学的見地からの痕跡としては藤原京跡から出土した荷札の木簡に右大臣とあったことと、藤原不比等の第2の故郷であったかも知れない群馬県に今もある古碑に711年の年号で右大臣と刻まれているの、多胡碑と呼ばれていて車持氏の車持が訛(なま)って群馬になったそうだけど、藤原鎌足が車持氏の娘を夫人としていたことと合わせて藤原氏の東国との繋がりを証明しているかのようだわ。また藤原不比等は平城京に春日大社を創建するに際して、東国の2武神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)を常陸(ひたち)と下総(しもうさ)から請来している点でも、良く分かるでしょ。軍事力の掌握は政権の安定にとって何時の時代も大切だったのよ。軍事力は保有するだけで威力があると藤原不比等は考えていたと思われるし、実際には軍事力を使う前に政治的交渉力で藤原不比等は政治を行っていたようね。藤原不比等の政権に居た時代には争乱は皆無に近いのですから。そういう睨(にら)みや人の配置にも多分長(た)けていたのでしょうね。藤原不比等って云う人はね。」

「藤原不比等のアウトラインはこんなところだけど、文献史学的には実際話をすることが出来ないの。但し外野に居る人は色々云っているわ。哲学者の梅原猛(うめはらたけし)先生とかね。でも史学会では相手にしないできたの。だってどのように推論されたところで何の証拠もなければ、出された仮説が正しいのかどうか、人文科学的にお答えする訳にいかないのですから。文献史学、特に日本史の世界は本当に窮屈なのよ。但しね、今回のように銅板とその文字列が見付かったということになると、途端にざわめき出すの。出番が来たってね。ただ、それでも判読できる文字数が少ない場合が殆どで、総合的知識でもって類推することが必要なの。場合によっては上津先生の力が十二分に発揮してもらえるかも知れないの。宜しくお願いするわ。明日は銅板の問題の銅板の文字列についてお話をしたいと思うので、今日はこれまでとします。」と史美は教壇を降りた。

4 銅板の文字列

その明くる日、京介が午前9時を少し回って講義室に着くと史美は何やらボードに書き込んでいた。

“淑気光天下薫風扇海浜春日歓春鳥蘭生折蘭人塩梅道尚故 文酒事猶新隠逸去幽藪没賢陪紫宸”

「これは奈良時代の勅撰漢詩集である懐風藻に残されている藤原不比等の詩で題は“春日侍宴応詔”と云うものよ。現代語訳は“温和な気が天下にみなぎり爽やかな風が海辺を吹いている麗(うら)らかな春を鳥は鳴き交わし芳しい蘭を高雅な士が手折っている調和のとれた政治は古くからのこと詩を作り酒を酌む御宴は新たな感懐である世を避けた私にも竹林の幽居を出て仕え不束(ふつつか)ながら皇居に参内している”といった意味よ。取り立てて気になる内容は見当たらないわ。でも銅板の両面ある片側にこの漢詩が刻まれていたのよ。ところどころ不鮮明であったり欠けたりしていたけれども淡海三船(おうみのみふね)か石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が751年(天平勝宝3年)にこの懐風藻を編(あ)んで呉れていたので発見は容易(たやす)かったわ。これでこの銅板が藤原不比等に関わるものであることは一目瞭然なの。でもね。もう片側の文字列が可なり不鮮明で読み取れる部分はかなり少ないんです。何とか読み取れた文字を羅列(られつ)すると“持 天去 百済之上表    帝記 旧辞 此地  秘     玄室藤   逝  不 開 莫  全隠    残  記    養老四年八月八日     ”となるのですけれど、今読み取れた文字はこれで全部です。レントゲンなどの科学的調査法の試(こころ)みはまだなので、もう少し文字数が増える見込みが無くはないけど、今は待ってられないし、これだけでも何か分かるかも知れないわ。私は女の直感かも知れませんけど藤原不比等が自らが関与した記紀編纂のバックデータの全てをあの世に持ち去ったことを云っているのではないかと思われるのよ。石室の中で今も藤原不比等はその史書に囲まれて眠っているのではないのかしら。」

2017年7月 6日 (木)

北円堂の秘密・その9(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

「君は北円堂の地下に石室が、いや藤原不比等の玄室があると考えているんだね。」と京介は朝から紅潮したような雰囲気の史美につられて口走った。「そうなの、上津先生もそう思わないこと?」と史美は京介の勘の良さに納得したようだった。「それで君の勘が正しければ北円堂の地下を何(いず)れ調査させて貰わねば気が済むまいね。」「実は奈考研の彼がこんなことも云っていたの。」「東向商店街の老舗中華店のこの銅板を発見した先代が云うには、北円堂の境内を囲う板塀なんか昔は何もなくて子供時代には五重塔なら上まで登れたし、北円堂の扉は閉められていたけれど基壇には上ってぐるぐる回って遊んでいたそうなの。また境内の西側は石垣になっていて、何かの祠(ほこら)のように注連縄(しめなわ)が張ってあったそうよ。それで遊んでいるうちに何かの拍子に、その祠に隠れてみようと思って入ってみたところ、ひんやりとして奥が深そうに見えたんだって。それで少し怖くなって後日探検してみようと悪餓鬼(わるがき)どもが集まって、大人の目を盗んで注連縄の奥へ入口の蝋燭(ろうそく)に火を点けて入ってみたそうよ。そうしたら、何かお城の抜け穴のような道が奥へ続いていて、2030メートルくらいで大きな石が崩れたようになっていて、そこから奥へは行けなかったそうよ。でも今回の奈考研の発掘調査により判明した北円堂の地下にまで達するような石の構造物があるのではと云う話と、この先代さんの子供時代の抜け穴の話は繋がるような気がするわ。先程、上津先生は私が藤原不比等の遺骸を納めた玄室があるのではと考えているのですねと云われたことについて、もう少し具体的に云うと、元々(もともと)平城遷都した際に、平城京のエリアには多くの古墳が存在していて今も開化天皇陵は三条通りのホテルフジタの西隣りにあるし、若草山の頂上には鶯塚古墳もあるの。だから北円堂の建っている外京の高台の外れは前方後円墳の一つや二つあったとしても可笑しくはないの。つまり玄室と云っても態々(わざわざ)藤原不比等のために作ったんではなくて、山階寺の山荘として藤原不比等が使用していた場所が嘗てのこの地の豪族・春日氏か和邇(わに)氏か分かりませんがその豪族の長の古墳があり、立派な石室を持つ構造のものがありそれをそのまま利用して藤原不比等の遺品を納めてその上に土盛りでもして、北円堂を建立したのではないかと考えている訳なの。その遺品の中には藤原不比等が生涯を通して身辺に離さず置いていた聖徳太子いやその後の天武帝時代の歴史書であった帝紀・旧辞などの今は無いものと云うことになるの。恐らく藤原不比等は記紀の編纂を済ませた後はそのバックデータとなる歴史資料は全て処分したとは思われるけれど最後の一部は、自身が真実の歴史家としての自負がそうさせたのか分からないけど、持ち続けていたと考えることが出来るわ。でもしかし藤原不比等はその膨大な嘗ての史書を例え一部であっても残したままで世を去ると、それを見付けた者は折角作り上げた記紀の世界を、元の史書に戻って脚色したところや創造した箇所を見抜いてしまい、藤原不比等の日本国の歴史書を纏(まと)め上げると云う大事業の狙いを粉々に粉砕されてしまうことを恐れたと思われるの。しかし、ここが藤原不比等の幼い頃の原体験に根差すものと云えるのか最後の一冊だけはどうしても処分する気にならなくて自分と一緒に玄室に葬って欲しいと遺言していたのではないでしょうか。だから北円堂の地下にはひょっとしたら帝紀や旧辞や多くの豪族たちの史書が山と積まれて現存している可能性がある訳よ。これが発見されれば文献史学の世界は数十年に亘って日本史ブームとなるくらい騒然となるでしょうね。分かります!上津先生。」

一気にまくし立てる史美にしばしば呆然(ぼうぜん)とした京介であったが一言口を開いた。「君の推論は少し暴論に過ぎはしないのかい。文字列だけを素人目だけど逆さまに見てもどうしても北円堂の地下に記紀以前の昔の史書の木簡だか巻物とかが残っていると考えることは出来ないのだがね。僕の正直な気持ちとしてはね。」「もう少し冷静にならなければ一挙にそんな妄想を誰も信じては呉れないと思うよ。君の論理が飛躍し過ぎだよ。」「銅板の漢詩が藤原不比等のものだというのは確からしいけど、もう片面の文字列の解釈については、云っては悪いが君のような文献史学であっても入って日の浅い学者の推論だけでは心許(こころもと)ないね。」

これを聞いた史美は少し脹(ふく)れっ面をして言った。「歴史学教室の大御所たちには、未(ま)だこの銅板発見の話を云ってないの。それは奈考研の方針で、まだ所内機密扱いですから、私は彼いや元夫から内々で頼まれているのですから、仕様がないじゃないの。」「それに文献史学の大御所たちは木簡や銅板いや三角縁神獣鏡のようなものに彫られた文字には冷たい態度をとるのよ。紙に書かれたものだと有難がるんですけどね。」「太安万侶の墓誌でも未(いま)だに疑っている先生もいらっしゃるくらいだから、後世の捏造(ねつぞう)だと難癖(なんくせ)を付けてね。分かるでしょう、間違ったような大御所たちの揺るぎない気位の高さが。だからそういう思い込みにどっぷり浸(つ)かっていない柔らかい頭を持っている、私のような若い史学者が最適な訳なのこのような問題には、でもそれには協力者が要(い)るの。」とまた史美は「お願い」を繰り返すのだった。

史美のくれたプリントに天武天皇の詔の箇所があり「日本書紀天武天皇10年(辛巳)3月丙(ひのえ)戌(いね)(17日)。天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。広瀬王。竹田王。桑田王。三野王。大錦下上野毛君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稲敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首令記定帝紀及上古諸事。」と書かれているのを見て、京介が「キーワードとしては銅板文字列にある帝紀が最重要なんだろうね。」と云うと。「さすが上津先生、お察しが鋭(するど)いわね。」「その通りなの。」「これまで藤原不比等に掛けられていた嫌疑がこれだけで本当であるらしいことが証明されたようなものなの。」と史美は上機嫌に答えた。

「それならば旧辞は上古諸事の部分に相当する訳だろうね。」「勿論そういうことになるわ。まあ帝紀の文字で十分ではあるけれどもより強く論ずることができるわ。」

「ついでにプリントの古事記の序文にも目を通しておいてね。」と云って史美は自ら読み上げた。

「先是、浄御原天皇(天武天皇)御宇之日、有舎人、姓稗田名阿礼、年廿八、為人謹恪聞見聡慧。天皇、勅阿礼、使習帝王本記及先代旧事。未令撰録、世運遷代、豊国成姫天皇(元明天皇)臨軒之季、詔正五位上安麻呂、俾撰阿礼所誦之言、和銅五年正月廿八初上。彼書所謂古事記三巻者也

あるいは「時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是廿八、為人聡明、度目誦口、払耳勒心。即、勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。然、運移世異、未行其事矣。

「日本書紀にはないけれど古事記の序には旧辞という文字も存在するわ。」「これは銅板の文字列が記紀すなわち日本書紀と古事記の両方についてのことについて書かれていることの証(あかし)と云えるわ。」「更に云えば藤原不比等は古事記にも日本書紀にも関与していたことが、これで歴然としたことになるわ。そうでしょう。上津先生。」と史美から急に振って来られた京介は史美の押しの強さに思わず「そういうことになるね。」と本当は納得できている訳でもなかったのであるが、相槌(あいづち)を打たさせられてしまった。京介は持参したペットボトルのお茶を一口飲んでから「“帝紀と旧辞”の文字は良いとして、他の“玄室”とか“不開莫”、“全隠”、“残記”、“秘”、“藤太政”、“持逝”をどのように解釈するかという問題に絞り込まれたってところなんだね。」自分で自問自答するように呟(つぶや)いた。

「“玄室”は(貴人のお墓)だし、“不開莫”は(ひらくことなかれ)、“全隠”は(すべからくかくせ)、“残記”は(残された記録)、“秘”は文字通り(秘密にせよ)、“藤太政”は(藤原不比等その人)、“持逝”は(何かを持ってあの世へ行く)とこんな解釈が一般的なんだろうけれど、君はこんな風に文字列を読んで藤原不比等が記紀編纂時の記録のバックデータを玄室に秘蔵したのではないかと考えた訳なんですね。」

「藤原不比等が自身の歴史書に対する愛着から処分せずに手元に置いていた古事記や日本書紀の元になった書物を山階寺の山荘の玄室に秘匿してあることを銅板に認(したた)めて、まるで墓誌のように埋めさせておいたのじゃないかと、藤原不比等は荼毘(だび)に付されて佐保丘陵のどこかに葬られたと思うけれど、この興福寺の北円堂は道教の廟所のような形で藤原不比等が祀られている訳だから、藤原不比等が生前、命の次にでも大切にしていたと思われる日本の過去の歴史の書物、いや参考にした当時の中国の歴史書もひょっとしたら有るかも知れないけど凄(すご)い、文献史学にとっては垂涎(すいえん)のお宝が北円堂の地下の石造物の中にあるかも知れないってことだね。」

2017年7月 7日 (金)

北円堂の秘密・その10(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

「藤原不比等は天武朝から取り組まれてきた律令制度を完成させるために、最後の云ってみれば国の形を造って魂を入れる作業として国の誕生神話としての古事記と、その後に発展した日本国の大唐帝国にも引けを取らない歴史書としての日本書紀を書き上げて魂を入れるところにまで漸(ようや)くにして漕ぎ着けたのであって、そのことについて成功したと云えるかどうか、未だ未だ後世に対して藤原不比等自身は不安も持っていたでしょう。だから自分よりももっと優れた者が政治家として後世に現れるならば、古事記と日本書紀は見直しを掛けて更に磨き上げることもできるように、自身が下敷きにした書物を保存状態は分かりませんけれど万全の処置をして秘匿したのじゃないかしら。そして北円堂を建立させて、生半(なまなか)なことでは掘り返さないように配慮したのだと思われるって訳かな。」「大唐帝国の世界の属国扱いであった倭国を日本という国として独立させるにはオリジナルな神話と紀伝体の史書がどうしても必要だったんだろう。多くの有力豪族の祖先は何れも中国大陸や半島から大昔に日本列島に海を渡り移り住んできた訳だから、それに藤原不比等の時代には当時も未だ未だ陸続と新天地の日本に渡来してくる人々は多かったに違いないのですからね。これらの新旧の渡来人たちが新天地で仲良く暮らしていくには中国の先進的な律令制度を取り入れるだけではなくて、どうしても協力し合える和の精神と云うか日本国という国体を樹立しておく必要が藤原不比等には強く感じられたのでしょうね。最初は細い木の苗のようなものであった訳だが、1300年も経(た)ってみると日本国と云う国体はびくともしていない訳だから、藤原不比等の日本国という国体護持の企図は成功したと云えるのかも知れないね。」

「でも藤原不比等は未来永劫日本国の国体に甘んじて国体護持に勤(いそ)しむのではなくて、もっと優れた政治家が出現するのなら世界は一つにもなれるってことも知っていた筈(はず)だと思われるよ。大唐帝国を藤原不比等は自身の目で見て来ていたとすれば猶(なお)のこと、古代の大帝国の素晴らしさ帝国の隅々まで安全に行き着くことが出来、人々が繁栄を謳歌することの素晴らしさを体験していたのなら、大唐帝国の外れにある属国的位置付の日本国であってもそのような形にしたいあるいは出来る筈と思ったとしても不思議ではないでしょう。古代の有力豪族の津守氏や物部氏や蘇我氏の列伝を下敷きにして取捨選択をして一つの建国のストーリーを作ることなど、当時日本の朝廷で重用していた百済人に頼めば簡単なことだったでしょう。それに当時何と云っても文字の読める人など支配層にしか居ない訳だから、史書を新しく編纂しても作った世代はその秘密を知っていても23代すれば真実の歴史として疑う余地が無くなることも良く承知していたでしょうから、それが日本国の国体護持の“おまじない”であるかの如く、各地の有力豪族のお話しを繋、(つな)ぎ合せて、誰も異存のないように全て摂(と)り込んで、万世一系の天皇という神話にすることなど朝飯前であったのでしょう。否、少し口が滑(すべ)ったかな。」と京介は少し自分で口を塞(ふさ)いだ。すると黙って聞いていた史美が云った。「そうね倭国の場合、半島と列島に跨(またが)る領域の国だったのではないかという説も最近では考古学者などが出されていますね。実は欽明天皇などは遺言で父祖の地が即ち任那のことだけど、半島にあったのに新羅に取られてしまったので取り返すようにせよと云ったということも書いてあるのよ。

“欽明天皇(卅二年辛卯)夏四月    朕疾甚。以後事属汝。汝須打新羅。封建任那。更造夫婦。惟如舊日。死無恨之。(自分は重病である。後のことをお前に委ねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。また嘗ての如く両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことは無い。)”」

「これはドーバー海峡を挟んだフランスとイギリスの歴史でも良く似た事が起きているわ。今では国の概念として国民国家と云うものしか知らない時代になっているけれど。奈良時代に来た唐招提寺の鑑真和上や唐に骨を埋めた阿倍仲麻呂なんかの頭の中には、まだ日本国なんて無くて大唐帝国の外れにある唐の属国という感じだったのではないかしら。」

京介は暫くお茶の空になったペットボトルを弄(もてあそ)んでいたが、少し重い口調で、「結局、銅板の数少ない文字列の意味しているらしきところを確認するためには北円堂の地下の石室を発掘調査するしかない。しかし、これは大変な難題である。」と云うと、史美も「奈考研としては興福寺から発掘調査依頼を受けているのは、飽(あ)くまでも北円堂境内の地表面下高々2メートル程度であって北円堂を解体移築するなんてことは、とても出来ない相談だろうと、引き続き本格的な北円堂直下にあると予想される石室の調査については相当に準備して掛からなければと、彼いや奈考研では考えているそうなの。」と云った。

京介はこれまで、幾度か史美の論文作成に少なからぬ協力をしてきたと若干の自信に似たものもあったのだが、今回の衝撃的とも云える銅板の発見とその特異な発見場所、即ち興福寺北円堂の境内と云う只(ただ)ならぬ関係を読み解ける自信は無かった。春休みはあと1ヶ月、秋の史学会に発表する論文の投稿期限は6月だから、あと4ヶ月と僅(わず)かな日数しかないのだった。史美は京介の困ったような顔も、自分の興奮気味な高揚した気分の所為(せい)で気も付いていないようであった。甚(いと)も簡単なことのように、「上津先生、これで、お伝えする内容は全てです。後はご質問があれば、メールででも下さいな。1週間の期間をとって、それぞれに研究をして、また1週間後の成果を持ち寄ってってことで如何(いかが)ですか。」と呆気(あっけ)らかんと、これまでに京介が史美に協力してきてくれた実績をバックに、微塵(みじん)も京介が内心不安を覚えていることには無頓着であった。言いたいことを言い終わった史美は気分がスッキリしたのか、「私、これでアヤを迎えに幼稚園に行くので、此処閉めといて下さいな。」と鍵束を京介に押し付けて意気揚々と講義室を出て行った。一人残された京介は、ここ4日間にレクチャーされた濃密とも思える日本史の課題について文献史学と考古学の狭間(はざま)の問題について、改めて目を見開かされた思いがしていた。「1週間あげるってか。」と呟(つぶや)きながら京介は電灯のスイッチをオフにし、鍵を掛けると講義室を後にした。

5 北円堂は夢殿

京介は翌日一人で興福寺北円堂の周りを歩いてみた。北円堂は興福寺の北西の隅にあるが、東と南の方面は奈良公園と云うか興福寺の境内そのものであり、北面は登大路に面したホテルの裏側になり、西側は民家に接していた。民家との境には築地塀(ついじべい)と少しばかりの雑木林があり、敷地高さの食い違いを石垣でカバーして繋いでいた。老舗の中華店の先代が子供の頃、その石垣の下の処に抜け穴の様なものがあったと云うので、奈考研の史美の彼も、気になって中華店の今の主人に石垣の現状を尋ねたところ、直ぐ近くだからと、親切に案内して下さって、近所の誼(よしみ)で民家の庭になっている石垣の処を見せて貰ったという。でもどこにも注連縄が張ってあったり、抜け穴のあったような気配は無かった。東向商店街の通りから北円堂に向かう坂の途中から、京介も目を凝(こ)らして石垣を覗(のぞ)いてみたが確かにそのような形跡は欠片(かけら)も見えなかった。京介は奈良公園の鹿が僅かに芽を出してきた草を食(は)むために遣(や)って来ていることさえ直ぐには気付かない程、血が上(のぼ)っていた。確か数年前に登大路に面した奈良地裁の前辺(あた)りで道路が陥没したことがあった新聞で読んだことがあったけれど、それは興福寺の境内の井戸の跡であったとか、今でもまだ明治の廃仏毀釈で無住となり奈良公園とされた興福寺の境内の発掘調査は事実上行われてこなかったのが実状である。近年になって興福寺の中心伽藍の辺りとか、春日大社の塔跡とかが僅かに発掘調査されたに過ぎない。現在の奈良県庁の建てられた頃でも発掘調査の方法自体が、まあ杜撰(ずさん)であっただろうことは想像に難(かた)くないと思われた。今でこそ小さな出土物にも注意を払うようになって来たが、当時はまあ、工事が遅れると困るということで嫌々(いやいや)調査をしていた頃だから尚更であったでしょう。

2017年7月 8日 (土)

北円堂の秘密・その11(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

京介が奈良公園の地下に想いを馳(は)せてみると、そう云えば余り多くの記憶はないのであった。

奈良県中南部の高松塚古墳や藤ノ木古墳の天皇クラスの人の壁画や埋葬品の発見は2度の大きな古代史ブームを日本に巻き起こし、今もそのブームの火は消えることがないくらいであり、飛鳥京や藤原京には考古学ファンが色めき立ち更に時代の遡(さかのぼ)る巻向遺跡や秋津遺跡に関心が及んでいる。翻(ひるがえ)って、奈良県北部では長屋王邸の木簡の発見では少し賑やかになったけれども、平城宮跡の地下の木簡の発見が相次ぎ解読も少しは進んでいるようだが、皆があっと驚くような重大な発見はその後ない状態である。大体が奈良市内で過去に出土し発見されている古墳埋葬されていた銅鏡などたったの1枚でしかないくらいで、飛鳥などの奈良県の南の地域とは異なり、都が平安京に移った後も平城京は南都として人々の営みが続いたものだから、その時々に見付かった遺物はそれなりに生活に利用し、金物ならばくず金物として再び熔(と)かして他の金物を作る材料としたのではないかと考えられ、纏(まと)まった出土品が発見されることはこれまで本当に少なかったのが現状である。唯(ただ)、今回のように事実上アンタッチャブルであったような奈良公園、それも興福寺の最も神聖な領域を調査する機会に直面しているのであるから、この機会を何とかものにしなければならないと史美もだし、奈考研の彼も考えるのは不思議ではなかった。

京介は少し小腹が空(す)いたので、古都大学の学生食堂が春休み中も営業しているのであるから戻っても良かったのだが、気分を違えてみるために登大路の奈良商工会議所の地下にあるレストランで昼食を摂ることにした。この地下レストランは何度もリニューアルされてはいるが、この界隈では古く、司馬遼太郎氏が活躍されていた頃、奈良に来るとよく利用されていたとの店であった。サービスランチを注文して待つ間、京介はこのビルを建てる時も発掘調査はした筈だろうけれど、どんな出土品があったのだろうか、それともビルは古そうであり戦後間もなくの頃の建設であり埋蔵文化財保護法も無かったのかも知れない。ここも興福寺の境内の中心に近かったけれど残念ながら発掘して本気で調べられることは無かったに違いないと腹の減り具合によったのか自ら納得してしまうように考えて意気消沈するのであった。そう云えば数10年前に奈良公園で開催されたシルクロード博の時には県庁東の交差点に地下歩道を建設したことがあったけれど、調査したとは聞いていないなと少し昔のことを想い浮かべた。いやもっと昔には近鉄電車が油坂駅の場所と名前を変えた新大宮駅から地下に入り現在の近鉄奈良駅として地下に建設した訳だけれど、この時も大阪万博に間に合わせようとしていたから発掘調査なんてそれこそ頭になかったに違いないだろう。また、近鉄電車は三重県の伊賀上野まで延伸する計画をしたことがあり、その際は奈良公園から若草山あるいは春日山の下を地下トンネルを掘って柳生に抜けるルートを考えていたそうである。今でも近鉄奈良駅の1番線と2番線のホームが異常に長く奥まで続いている様に感じるのはそのせいで、実は登大路の下には県庁前の辺りまで、トンネルが掘られてあるという噂(うわさ)もあるようだ。しかし当時、日本列島改造論で沸(わ)いた日本でしたが流石(さすが)に古都奈良の中心をトンネルでぶち抜くと云う計画は皇居の直下に地下鉄を通せないのと同じように日の目を見ることは無かった訳であった。

中央リニア新幹線が名古屋から大阪に延伸されるルートには中間駅として奈良駅が設けられることになっているけれど、矢張り奈良公園の直下を抜けることはないだろうなと京介は、サービス定食の海老フライを頬張りながら思った。JR関西線沿いに名古屋から西進し奈良市付近とは云いながら京都府木津川市辺りに奈良駅が出来るのではないだろうか。元々、山背国(山城国)というのは大和の北辺の山地の裏側という名称だったのだから、また木津川市辺りは長く興福寺の所領であったし、聖武天皇の一時期遷都した恭仁京(くにきょう)は全くもって昔から奈良の文化圏であった訳だし。とどうでも良いような考えを巡らしながら、どうしたものだろうかと流石の京介も途方に暮れるばかりであった。食後のコーヒーを待つうち京介の脳裏に地下に届くドライエリアからの日照に、ふと興福寺北円堂の地下にも日差しが届くことはないのだろうかと、かつて石室の倉の中に様々な貴重な書物の巻物を山のように積み上げていて、今もそれが存在するかも知れないと云う只(ただ)ならぬ夢想を生ぜしめた。

地下レストランで思考を続けようとしたが、食事で胃に血流が向かっているのか考えは纏まらなかった。コーヒーも飲み終わり地上に出ると初春の陽光が目に少しばかり眩(まぶ)しかった。

登大路の広いバス道を挟(はさ)んで南側には春日ホテルや登大路ホテルが見える。そのホテルの更に南側に北円堂は建っているが叢林(そうりん)の中に隠れて、こちらからはその八角形の優美な屋根が見えない。京介は奈良県庁の手前から興福寺の参道に入り五重塔の前に屯(たむろ)している数頭の鹿に鹿せんべいを与えた。10枚のせんべいは瞬(またた)く内に無くなり、未だ欲しそうにしている鹿を後に、南円堂に向かって歩いた。これまで古都大学の准教授をするようになってからも、日本の古代史と云うか奈良時代というものにそれ程興味が無かった所為(せい)か、それとも仏教の抹香(まっこう)くさい匂(にお)いを好きになれなかったからであるのか、興福寺の北円堂が眼中になかったというだけでなく、南円堂についても西国三十三所の第9番札所ということで、滅多(めった)に近付いたこともなかった京介であった。ただこうして改めて、南円堂と北円堂について繁々(しげしげ)と見比べてみる気にさせられたのは、何か今回のことを解決するための糸口がないだろうかと云うことであった。南円堂の南側は少し崖のようになっていて北円堂と同じように小さな台地状になっている興福寺の中心伽藍のある台地の端に位置しているのだった。もしも平城京遷都の行われる前にこの辺りに巨大な前方後円墳などがあったとすれば、今の東向商店街や猿沢池の辺りは周濠(しゅうごう)であり、鴛鴦(おしどり)などが営巣していたことだろうと思われた。墳丘の高みを削って少し平(たい)らかにしても、地中に残っていた巨大な石室はそのままにしていたことだろう。南円堂の南側の崖の下から南円堂を見上げると北円堂よりも一回り大きい八角円堂が更に大きく見えた。この崖下にはひっそりと興福寺の三重塔が建っていて静かなところであることを京介は初めて知った。奈良に暮らしていると身近な処は慣(な)れっこになって関心を抱くことが少ないのかも知れないが、京介はこれまで興福寺については、興福寺というよりも奈良の入口の五重塔があるところくらいにしか意識して来なかったのだろう。

三重塔から北円堂に向かって坂道がありゆっくりとその坂道を登ると次第に北円堂が坂の上に姿を現わすという中々趣のある坂であった。今は北円堂の周りを奈考研の発掘調査中の無粋なバリケードに囲まれているが、それでも十分にお釣りのくるくらい文化財に恵まれているという景観に溢(あふ)れていた。京介が一歩二歩とその坂を南から北に登りながら南円堂の西側の大樹の枝が坂道の上を覆(おお)っているところを抜けると、北円堂の天辺の五条大橋の擬宝珠(ぎぼし)にも似た火炎宝珠が良く見えた。そして尚(なお)も進むと、京介の頭にふっと法隆寺の夢殿のイメージが浮かんできた。その夢殿のイメージは今眼前に見える北円堂と一つに頭の中で重なってしまうのだった。

法隆寺の東院伽藍にある夢殿は紙幣の図柄になったりしており、日本人なら誰でも知っている訳であり、当然にして京介の頭の中にも法隆寺の夢殿のイメージは消し難く残っていた。そこで不思議に思ったのは、何故、興福寺の北円堂の姿が法隆寺の夢殿に似ているのかと云うことであった。勿論、南円堂などは江戸時代の再建であり、北円堂を真似ているそうであるが、正面に唐破風(からはふ)を配していたり、少し規模を大きくしているために南円堂が北円堂に似ていると思う人は少ないだろう。それなのに京介の頭には、法隆寺の夢殿と同じ雰囲気が、この興福寺の北円堂の姿にダブって感じられるのであった。

飛鳥時代から奈良時代にかけては記紀並びに続日本紀が整備されていて何でも一応は説明のつく時代のように一般的には思われているのだけれど、法隆寺再建論争など、史学会でも火種が残っている状況であり、門外漢にとっては世界最古の木造建築物の言葉に惑わされていて、法隆寺の建物は全てが飛鳥時代の建造であり、決して奈良時代のものではないと信じ込んでいる人さえ多い。京介もつい最近までその一人であったことを自白せざるを得ないのである。

2017年7月 9日 (日)

北円堂の秘密・その12(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

しかし先日、古都大学の図書館で手近な文献を拾い読みしたところ興福寺北円堂の創建は藤原不比等の薨(こう)じた翌年721年であり、一方法隆寺夢殿の創建年は奈良時代の中頃、興福寺の僧・行信によると書かれていた。但し、現存する北円堂は4度の火災による焼失から度毎に再建されており、現在の北円堂は鎌倉時代、鎌倉幕府の南都復興事業により再建されたものであり、法隆寺の夢殿は奈良時代の創建伽藍としてそのまま遺(のこ)ってきたものであるので、現存する八角円堂同士で築年の古さを比較すると圧倒的に法隆寺の夢殿が古いことになる訳である。また更には法隆寺夢殿に祀られている救世観音のおどろおどろしい明治時代の話、即ちフェノロサと岡倉天心が1000年間封印されていた夢殿の秘仏・救世観音を開扉し梱包を解かせた事実により法隆寺の凄(すご)さが喧伝(けんでん)されてきたという事かも知れない。梅原猛(うめはらたけし)氏が歴史小説として書かれた「隠された十字架」は1970年頃一世を風靡(ふうび)し今も古代史ブームのファンを魅了し続けている。

京介は「隠された十字架」を買って家の何処かに持っている筈ではあるが、内容を理解するには単なる歴史小説を超える学術性が高く、遂(つい)に完読出来なかったことがあった。まあ京介にとって古代と云う日本史の領域にそれ程の興味が無く中世の終わりから近世の辺りが何と云っても遺(のこ)された書物も多く面白いのであった。古代の面白さには未だ開眼していなかったと云えるのかも知れないのだけれど。少ない資料から大胆な推理をするような学術については理論物理を専門としている京介にとっては、石橋を叩(たた)いていないように思われた。唯(ただ)だからと云って史美の協力依頼を無下に断る訳にもいかなかったからだが、北円堂についてよりも北円堂に似ている夢殿のことを少しく理解すれば何かこの問題を掘り下げる糸口が見付かるかも知れないと京介はほっとするような、でも一方では北円堂から少しの間、逃げ出す理由を発見したのだった。

北円堂の本尊は運慶仏として仏教美術の面で有名であり弥勒如来像となっている。弥勒は菩薩像が本来の姿であるところを藤原氏の実質上の初代である藤原不比等が入滅の後も弥勒如来として顕現して藤原氏の末裔を護って下さると云うことになっている。また弥勒如来の両脇侍には大乗仏教の唯識学を大成させた無著・世親の兄弟像が配されており、更に左右前には法苑林菩薩像と大妙相菩薩像が広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像の姿で座っておられる。

ところで北円堂と同じ八角円堂を一回り大きくした興福寺の南円堂は平安時代の初め(西暦813年)藤原氏の権勢に翳(かげ)りが見えたので、嘗てのように復権をするために空海に頼んで不空羂索観音を祀るお堂として創建したのが始まりである。空海の寺としては高野山とか京都の東寺が今では有名だが空海の存命中は平安遷都後の平城京即ち南都における救世主のような存在で、東大寺の別当を務(つと)めたりこの興福寺にも深く関与していた訳である。今に至るも奈良県に真言宗の寺院が多いのはその所為でもある。空海は藤原冬嗣の依頼を受けて藤原不比等の北円堂があるではないかと思ったのだろうけれど、当時は既に観音信仰が流行しており中でもご利益の大きいとされた不空羂索観音を造像し興福寺の西金堂を挟んで南北に八角円堂を建てることを思い付いたのだろう。南円堂のお陰であるのか藤原家の中で北家だけが後々栄えることになる。まあ元々八角形の円堂と云うのは飛鳥時代の天皇稜に見られる通り、“国の八角(八方)を知ろしめす”という意味を持ち、高貴な人のみに許された形であった訳である。例え廟所として祀るお堂であるにしても八角円堂は時の政権の最高位にある人のみに許されたものなのだろう。藤原不比等の子藤原武智麻呂も実は八角円堂に祀られている。藤原南家が政権中枢にあったとき藤原仲麻呂が父・藤原武智麻呂を祀る八角円堂を奈良県五條市の栄山寺に建立しており、その八角堂は現存最古の八角円堂として当然国宝に指定されている。

何れにしても、西暦721年に藤原不比等を祀るために元明太上天皇と元正天皇が長屋王に命じて建立させた興福寺の八角円堂は、左大臣の居ない政権中枢で人臣第一等の位置にいた藤原不比等を生前の業績を顕彰し薨去後の菩提を弔う意味において最高の形式を国家権力の名において施されたものであったと云えるだろう。因(ちな)みに以後の時代においては八角円堂の構造の複雑さによる建方の難しさを別とすれば、八角円堂が建てられた例は数少ないと思われる。後は法隆寺の夢殿が聖徳太子の廟所として興福寺の僧により建てられているものと同じく、法隆寺の西院伽藍の西に西円堂として多分恐らくこれは藤原不比等の夫人であった橘三千代のために橘諸兄(たちばなもろえ)あたりが建立したのではと考えられるくらいである。

時代が下がると八角形は六角形となり六角堂なら京都辺りに少しは現存する程度である。兎も角、人臣最高級の扱いを藤原不比等が受けた事は八角円堂の形から確かであり、その地が終焉(しゅうえん)を迎えた藤原不比等自身の山荘跡と思われる現在の平城京外京の興福寺の地であることも、如何に時の女帝であった元正天皇が藤原不比等を頼りにしていたかが分かろうと云うものである。藤原不比等のその身は荼毘に付して佐保丘陵に葬っても藤原不比等が平城京の大極殿ではなくて自身の晩年の私生活を送っていた山階寺に廟堂形式で祀ってあげたことは元正天皇にすれば藤原不比等に政局の相談を持ち掛けた生前を思い出せるように、願えば北円堂の本尊として安置した弥勒如来像が名案を出して呉れるのではとの想いから建立し藤原不比等亡き後も日本の政権の安定が続くことを祈る場として興福寺そのものも官寺の格にして本格伽藍の整備の詔(みことのり)を発したものと思われる。最近の文献史学の研究によれば聖徳太子が数多くの制度をお作りになったというのも、実は藤原不比等の時代の律令制度の整備に相当することであるのに日本書紀や古事記の中には聖徳太子の時代に太子が為された業績として書かれている。これこそは藤原不比等の深謀遠慮の為せる業(わざ)ではないかと考えられる。このような事情を知っていた興福寺の僧がこれをもっと完全にするために法隆寺に夢殿を建てて聖徳太子こそが日本の国の基礎を造った人であると後世太子信仰の始まりとなる目論見(もくろみ)を行ったのではないでしょうか。この辺りも藤原不比等の自分は絶対に表に出ない名を出さないと云う完全主義が時代を下がっても未だその意を受けた僧によって実行されていることからも推測されるところである。藤原氏は実質的には藤原不比等を開祖とするがその出自は百済の王族との説もあり、乙巳の変(いっしのへん)で滅ぼされた蘇我本宗家とは近い間柄であったとも考えられている。聖徳太子は蘇我氏の最高のプリンスであった訳であり藤原不比等は聖徳太子に憧(あこが)れていたものと考えても不思議ではない。藤原不比等の業績は律令制度の整備から国史の編纂、更には維摩経(ゆいまきょう)を好んだ点に至るまで聖徳太子と瓜二つのようなところが見受けられる。藤原不比等は自身の業績を推古女帝の頃に政権を支えた聖徳太子に遡(さかのぼ)らせて仮託し自分の存在を歴史から消したとも考えられる。従って北円堂は藤原不比等の夢殿であったといっても過言ではないだろう。

京介は北円堂と夢殿の堂々巡りに頭の中が疲れてきたのか、少し陰(かげ)ってきた春の日差しに身震いしたのを機に北円堂に祀られている藤原不比等に一礼をして北円堂を漸くのことで立ち去り、東向商店街に向かう坂道を下りた。

6 不思議な夢

その後、数日、京介は史美から預かった古都大学の歴史学教室が保有する主な藤原不比等に関する文献のコピーや、自身で集めて来た書籍を片っ端から読み続けることにした。幸い、京介には速読の心得がありこのような場合にはとても役立った。

2017年7月10日 (月)

北円堂の秘密・その13(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

また藤原不比等にふれた書物は本家本元の藤氏家伝から不比等伝が滅失していることを皮切りにして、歴史上の有名人にしては本当に数少ない部類であることも与えられた日数の少ない今回の件については幸いであった。それでも古都大学の京介のさして広くない准教授室は書籍や資料でコーヒーカップを置くテーブルの上の場所さえ占領されている始末であった。

資料を読む順番を考える暇(いとま)もなく京介は集中心を高めて速読を続けた。京介の頭の中では読み込んだ内容の取捨選択や順番の並べ替えと重要度の重み付けを行うべく何回も記憶を引き出したり、思い出す作業を繰り返した。そうすることにより藤原不比等と云う歴史上の人物が、京介の脳裏にバーチャルイメージとなり語り掛けてくるまでになるのが理想であった。京介が短期日に覚え込んだ内容は史学会の藤原不比等にふれた学術論文や学術雑誌から、古今の高名な歴史学者の藤原不比等像や評論から果ては歴史小説の類に至るまで多岐を究(きわ)めた。歴史小説も昨今あまりバカに出来ない代物もあるようなので奇想天外であろうとなんであろうと藤原不比等を扱ったものであれば目を通すことにした。但し、ゲームキャラクターであるとか不比等の文字に共鳴したかのような類のものは避けたけれど、また漫画などには原作本が有りそうでないものもあり、バーチャルイメージを描き易いこともあり、イメージの固定化を仮り物と認識したうえで利用もすることにした。全くもって藤原不比等と云う人物は、自身を歴史の襞(ひだ)に隠してしまったかのように、中々に京介の脳内に像を結んではくれなかった。

藤原京と平城京の二度の遷都を実行し、時の女帝の孫に当たる文武天皇と聖武天皇の実現を画策したその手並みは藤原不比等を置いて他、史上類を見ないだろう。そのような大立者をイメージするには本当に歴史学的事実が少な過ぎるのであった。史学会に属する学者達は史美のような若い人を除いて保守的であり、記紀の解釈を少ない材料のもとに大胆な構想を練ることは不得意であり、人文科学としての信憑性(しんぴょうせい)が保証されないと考えていた。一方素人はある種怖(こわ)いもの知らずのところがあり史実(しじつ)の空白期間については様々な妄想(もうそう)をして藤原不比等を全国各地いや唐土にまで神出鬼没させるのであった。只(ただ)正史の中で垣間見える藤原不比等は西暦68931歳で持統朝の判事として登場することが日本書紀に書かれており、それが初登場であり、養老4年(72083日に62歳で亡くなったことが続日本紀に書かれており、同1023日には太政大臣正一位を追贈されたと云うことが分かるのみである。他には大宝律令、養老律令のことがあるのみである。現在の日本の政府の官僚組織の始まりというか日本の国の形を決めたときの宰相(さいしょう)の立場にあった人が藤原不比等しか居ないということは状況証拠としては歴然としており大した人物であったに違いないということは、如何なる歴史学者もこれまで異論というようなことで口を挟んではいない。しかし、積極的に国事を藤原不比等唯一人で決めたとか、いや多くの官人たちのチームワークによったのだとか、論ずるにしても決め手がないということであった。只近年の考古学的出土物の発見やその学術的解明が進めば、記紀に書かれた文献史学の学問世界が活況を呈するのは理の当然と云えた。

京介は現在の子供たちが習っている教科書にも目を通した。気になることと云えば藤原不比等が娘の光明子を聖武天皇に嫁(とつ)がせて、後の藤原氏の時代を出現させる基(もと)となる活動を始めたと書かれている事ぐらいであった。記紀を読めば藤原不比等のみが天皇家の縁戚に連なり、皇親政治を押さえて天皇の祖父として政権を手中にする後の平安時代の藤原氏の摂関政治の先駆けであった訳ではなく、記紀に登場する豪族の多くは娘を宮中に参内させてその機を狙(ねら)っていたというのは確かなことである。ただ後世この方法を藤原氏が得意としほぼ平安時代を藤原時代と名付けられる程に次々と成功し日本の国の政権そのものが摂関政治となるような素地(そじ)を作ったのはひょっとすれば、いや実は藤原不比等の深謀遠慮であったのかも知れない。残念と云うか藤原不比等の画策した娘・光明子の活躍は藤原不比等の没後のことになったので、存命中に自身の野望を目にすることはできていないけれど、藤原不比等の筋書き通りに事が運んだことは歴史が示している訳である。

京介は得られた書物や資料を全て読み終えると、藤原不比等のプロフィールを頭の中に想い浮かべることにした。中世から戦国時代の歴史上の人物であれば小説の類も多く、映画やドラマになっているため過去に見た覚えのある俳優の演技であるとか脚色されたイメージがそのまま想い浮かぶので、ある意味便利であるのだが、古代の人物についてはTV・映画ともに極めて稀(まれ)なため、京介の頭の中に既存のイメージファイルが用意されている訳ではなかった。

京介は日本の有名な俳優を当(あ)て嵌(は)めてみたりしたが、何故かしっくりくる役者は居なかった。藤原不比等の画像としては談山神社の藤原鎌足像の掛け軸の下側左右に兄の定恵と不比等が小さく描かれているのが、唯一あるくらいで、それも後世のものである。焦点が暈(ぼ)やけたままで藤原不比等のイメージが固まらないままに京介は、今回の史美からの協力依頼の内容を反復してみた。史美は元(もと)夫の彼から「奈考研の北円堂発掘調査において発見された銅板に文字列が刻まれており、その断簡の文献史学的な学術調査を極秘裏に協力して欲しい。」と依頼された。そこで、史美は同じ古都大学の理学部に席を置く京介に、これも極秘裏に手伝って欲しいと、門外漢ながらこれまでの友達付き合いの中で、歴史への並々ならぬ造詣(ぞうけい)を感じ取っていた史美は秘密であるが躊躇(ためら)わずに京介に自身の集めた藤原不比等の資料コピーと共に、例の極秘扱いの銅板の文字列資料コピーを持ってきた。

藤原不比等に私的な権勢欲があったことは従来の政権に就いた豪族よろしく娘を宮中に参内させてはいるけれど、それも2度に亘(わた)って、娘の光明子を聖武と娶(めあわ)せるその一代前の文武天皇に娘の宮子を入内させて、聖武天皇はその間に生れた子であり、藤原不比等の外孫であった訳であり、人並みの権勢欲があったことは確かだろう。しかし、問題はその点にあるのではなくて、30代~40代にかけては大宝律令や養老律令を手掛けて、日本の律令制度を完成させたこと、また晩年の50代においては国史の編纂に注力したのではないかという点であり、記紀には確かに律令制度に藤原不比等が関わったことが書かれている。しかし、国史の編纂については藤原不比等の関与を示す記述は見当たらない。ところがこの度の北円堂の発掘調査により発見された銅板の文字列には帝紀など国史に関係する文字が刻まれており、藤原不比等が記紀の編纂に関わっていたことが証明される訳である。このことは更に追求すれば“日出(い)づる国を形づくった聖徳太子の事績”と悉(ことごと)く似ていると思われ、興福寺の北円堂は法隆寺の夢殿と繋がっているという歴史を逆流させるかのようなトリックを記紀の記述から読み取らねばならないと云う問題が提起(ていき)されそうでもあるのである。また別の角度から見れば法隆寺は聖徳太子の所縁(ゆかり)の寺であり、その斑鳩(いかるが)の地の太子を祀る法隆寺を藤原不比等が国史の編纂所として活用したのかも知れない。一般には学問所として経典の解釈に明け暮れたとされているけれども、もっと日本の国の形を整えるのに大切な国史即ち日本書紀の編纂所であったのではなかろうか。そして夢殿建立は藤原不比等の遺言を実行したとも解釈されても可笑しくはないのだろう。

京介の頭の中には詰め込んだ資料のデータが少しづつ配置転換を繰り返し、ジグソーパズルが解(と)けていくかのように大きな骨組は固まりそうであった。が、未だ未だ素人作家の歴史小説の他愛(たわい)もないような珍説が時に頭を占領することもあった。

2017年7月11日 (火)

北円堂の秘密・その14(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

京介は若干、頭の中が混乱し休めてやる必要を感じた。もっと簡単なことを想い浮かべてみよう。例えば藤原不比等が纏(まと)っていた衣服についてはどうだろう。まるで安物の時代考証さながらであるが、目先を変えると少し頭の中に余裕が生れた。多分、奈良時代の貴人は唐服を着ていたと思われる。唐服は乗馬も出来る装いであるから、体にぴったりとしていて現代人の衣服に近いものであったと考えられている。唯(ただ)、これまでの教科書の奈良時代の想像図は平安時代と変わらないものであったので、奈良時代以前の唐帝国の文化圏の東の外(はず)れではあるけれど、唐の文物が略(ほぼ)100%日本に到来していたことを特筆しておくことは大事だと思われた。余りに古い古墳時代の埴輪(はにわ)の貫頭衣(かんとうい)程みすぼらしいものではないと云うことは良く理解しなければならないところであろう。白鳳期や天平期の仏教美術の華である仏像の纏っているハイセンスな衣裳(いしょう)を見れば、平安時代のだらしないとも云える衣冠束帯や十二単(じゅうにひとえ)は奈良時代の人々から見ればがっかりしたかも知れません。女性にしても興福寺の阿修羅像のような薄絹を纏って宝飾でインド女性のように飾っていたに違いないのですからね。

京介は暫く服飾雑誌かファッションショーのように奈良時代の衣裳を考証して、まあこれ位にするかと、古都大学の准教授室を出た。明日は史美のくれた1週間の猶予の終わる日であり、美味しいものでも食べてアパートに帰ることにして、自分の心身に前祝いでもあるかのご褒美を与えることにしたのであった。その晩、京介は久し振りに鱈腹(たらふく)御馳走(ごちそう)を食べてアルコールも少し摂(と)り、さすがに頭は回転せずに夜の寝付きは早かった。明くる日は史美の処へ例の古都大学の講義室へ午前9時に行くことになっていた。

朝方、目が覚めて、枕元の時計を見るとぐっすり寝た所為か遅刻気味であった。慌(あわ)てて買い置きのサンドイッチを頬張りアパートを駆け出し電車に飛び乗った。電車は平城宮跡を通り過ぎあと一駅(ひとえき)で終点の近鉄奈良駅に到着するのである。京介は最後の一駅のあたりが一番電車に揺られているともう一(ひと)眠りしたくなる気分によく陥(おちい)ることがあった。その日も気が付くと“次は県庁前、興福寺へお越しのお客様はこちらで下車なさるのが便利です。”と車掌のアナウンスが聞こえてきた。“おやっ、近鉄奈良駅で降りるのを寝過してしまった。”と思った。不思議な気分ではあったけれど、電車がホームに停車すると“県庁前、奈良県庁前”とちゃんと駅員のアナウンスが聞こえてきた。京介が奈良県庁に登庁する職員に交じって地上に出ると朝の光に目が眩しく感じられた。一瞬目を瞑(つぶ)って再び目を開けるとそこには県庁はなく登庁する職員と思っていた人々は唐三彩の人形が命を吹き込まれたかのように歩いていた。皆、数日前に京介が見た資料に書かれていた唐服を身に着けていた。京介の目には中国の北京の故宮の様な建物が青や赤の丹の色も鮮やかに建ち並んでいる光景が見えてきた。唐服の人々は朝の出仕する官吏のようであり、それぞれの衛府の建物の中に吸い込まれるように消えて行った。取り残された京介が近衛門と書かれた大きな門から宮廷らしきところを覗いていると、凛々(りり)しい武人の出で立ちをした衛兵が近付いてきた。衛兵は全て心得たような顔をして“何でもお望みのところへご案内致します。宜しければ私に附いて来て下さい。”と云った。京介は云われるままに大きな朱雀門を潜(くぐ)り、とても広い白砂の敷き詰められた広場をずんずんと歩いて一番奥にある一際(ひときわ)大きな大極殿らしき建物の手前の小さな建物に案内された。そこには一人の女官が待っていた。女官は京介を見ると唐服を一揃(ひとそろ)い出して“これに着替えるように”と云った。女官に手伝って貰って着てみると中々に快適で動き易く感じた。女官は京介の着替えが終わると“さあ参りましょう”と云い、衛兵を先に立たせて自分は京介と並んで歩き始めた。女官の顔は史美に似ているようであり、衛兵の顔は史美の元夫である彼に似ていた。大極殿への入口は厳重に警護されていた。衛兵が何か通行札らしきものを見せると、警護兵たちは直ぐに扉を開けて通路を指示して呉れた。何ヵ所かの関門を通り漸く太い柱が並びとても天井の高い大極殿に入れて貰えることになった時、京介は思わず隣の女官に質問を浴びせた。“何方(どなた)のところへ私を案内して下さっているのか教えて頂けませんか。”すると女官は笑みを浮かべて、“まあ、上津先生がご自分でお会いになりたいと御申出されたのではありませんか。”と不思議そうな顔をした。衛兵も京介と女官の遣り取りを聞いていても、歩を弛(ゆる)めることはなく、ずんずんと大きな建物の中央に進んでいた。ある几帳の前で衛兵は止まり几帳の陰に居る人物に何か話し掛けた。そこで京介は椅子をすすめられて座って暫く待たされた。やがて几帳が取り払われて大極殿の一段高くなった処へ上ることになった。案内された場所からは大極殿の中央部が良く見渡せた。続々と唐服の高官たちが居並び始めていた。これが百官の集(つど)う将(まさ)に朝堂の様子なのだなと京介は静かに息を詰めて見守った。高官たちが並び終えると、控えの間らしき処から大極殿の更に高い処に移動する人影が見えた。同じ唐服ではあるが金糸を使ったりして煌(きら)びやかな服装の人たちであり、身分の高そうな女性であった。玉座のよな大極殿の中央の奥に設(しつら)えたところに御掛けになると、一斉に居並ぶ高官たちの視線がそこに注(そそ)がれた。

女官が小声で“元明太上天皇と元正天皇、それに従っている女官の橘三千代さまです。”と教えてくれた。

そう云えば元正天皇の御代(みよ)の養老4年(72083日、藤原不比等が薨(こう)じてより、翌84日舎人親王を知太政官事、新田部親王を知五衛・授刀舎人事すなわち近衛長官に任じてはいたが、国の政務を人臣第一等で掌(つかさど)っていた右大臣の後釜を決めるまでには時間が掛かっていた。漸く、1017日には藤原不比等が山荘としていた山階寺を官寺格にするべく(養民司・造器司)・造興福寺仏殿司の三司を設置した。そして1023日には長屋王と大伴旅人を不比等邸に出向かせて藤原不比等に正一位・太政大臣を追贈するとの詔を伝えさせた。そして年が変わった翌養老5年(721)正月五日に至り、長屋王に従二位を授け藤原不比等の後任として右大臣に任じている。また同養老5217日には“去る庚申(かのえさる)の年(養老4年)には朝廷の模範の人物であった藤原大臣が俄(にわ)かに薨去し、朕の心は悲しみに慟哭(どうこく)した。”との元正天皇の述懐“遂則朝庭儀表。藤原大臣奄焉薨逝。朕心哀慟。”が続日本紀に記されてもいる。これ以後についての日本の歴史は続日本紀に記される通り、謎めいたところもあまりなく、淡々と続いているように見受けられた。

京介は平城宮の大極殿で久々に開かれた朝議に参列していることが漸く理解できた。それで女官が云うには“今日が正月五日であり、長屋王が右大臣に任じられる”のだそうであった。京介は群臣の中に長屋王の姿を探そうとしたが、余りにも大勢の中なので分からなかった。思い直して元正天皇の臨席されている筈の方角を少し見上げてみたけれど、これも小体(こてい)な几帳などが邪魔をして見通すことが出来なかった。その後も京介はずっと待たされていたが、数刻が過ぎて漸く朝議が終わったようで元正天皇にお目通しが叶(かな)うことになった。京介は自分からは一度も元正天皇にお会いしたいと申し出た記憶はなかったのだけれど“さあ元正天皇が御待ちになられています。”と女官に云われ衛兵に誘導されると幾つかの几帳の前を過ぎて、一際立派な几帳の前まで進んだ。するとスルスルと高御座(たかみくら)の御簾(みす)が巻上げられて、猗(なよ)やかな女人がこれも唐服を着て腰掛けていた。

その女人は“朕は氷高(ひたか)である。そちの申し出を聞いて私も先年薨去された藤原大臣に会えるのであれば黄泉路(よみじ)へ往(い)ってでも会いたいと思っている。今日は藤原大臣の跡(あと)を継ぐ右大臣を漸く決めることが出来るに至った。私のような女帝であると藤原大臣は大層頼り甲斐(がい)があり、全てを任せていたのであるから、跡を継いでくれる人物を誰にするかについては、決心するまでに本当に時間が掛かった。今もし藤原大臣(ふじわらのおとど)に会えるのなら、この人選が誤りではありませんことをお聞きしたいと願っております。そちは藤原不比等公にお会いになると云うことだそうであるから、是非会って私が後任を長屋王に託したことを伝えては貰えまいだろうか。”元正天皇は猗やかさの中に気品を湛(たた)えて厳(おごそ)かにも思える声でお話しになった。

2017年7月12日 (水)

北円堂の秘密・その15(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

京介は自分が黄泉路(よみじ)に行けるのか、どうすれば往(い)けるのかさっぱり分からないながら、“畏(かしこ)まりました”と畏(かしこ)まって答えるしか術(すべ)も無かった。京介の返事をお聞きになると元正天皇は退席をされ、その両隣の御座(みくら)の中からも少しお年を召(め)した女人が2人ご退席をされた。女官は元明太上天皇と橘三千代さまであると云った。居並んでいた群臣たちが引き揚(あ)げると、あとは片付ける仕丁(しちょう)と奴婢たちが忙しく立ち働き始めた。その場を追われるように大極殿の外に出ると流石に日差しが眩(まぶ)しく感じられた。衛士は全てを誰かに承(うけたまわ)っているのか、京介に次に参りましょうと、佐保路口の方へ歩き出した。小さな門を出ると幌付きの2頭立ての馬車が用意されていた。“此処からはこれにお乗り下さい。”と京介と女官を乗せると、自分は馬丁(ばてい)の隣に座って馬丁に出発するように指示した。馬車の幌に一部分、簀(す)の子(こ)窓があり、外部がよく見えた。佐保路を東に向かうと大きな築地塀のある通りへ出た。衛士が此の築地塀の中が藤原大臣の邸であったと説明してくれた。暫くして右に曲がりまた大きな築地塀のある処に出た。これは長屋王のお邸であるとのことであった。邸の外れを左に曲がり“山階寺にこれからご案内します”と云う声がした。しばらく一条通りを東へ佐保川に架(か)かる橋の手前の坂がきついのか2頭立ての馬車ではあるけれど馬丁が馬に鞭(むち)を入れた。欄干(らんかん)のある大きな橋の上に至ると馬車が突然止められた。“馬車を下りてください”と衛士は云った。京介が馬車を降りると天気が正月どころか夏のようで暑かった。橋の東の袂(たもと)に一台の牛車が止まり、牛車の従者が木陰で涼んでいるのが見えた。衛士は京介と女官を牛車まで歩いて連れて行った。牛車の中には初老の高官らしき男が乗っていた。よく見ると目を瞑(つぶ)っている。今度は女官が云った。“藤原不比等公は昨年83日この地で卒(そ)っせられました。今ご覧頂いているのはその日の幻影で御座います。これから私たちは不比等公が生前に私邸としてお住みになっていた外京の山階寺へ参ります。”3人が馬車に戻り佐保川に架かる橋を下りて牛車の処まで来ると牛車はゆっくりと動き出した。馬車は牛車の歩みに合わせて飾り金具を揺(ゆ)らせながら牛車の後ろに従った。可なりな時間を掛けてゆるゆると牛車は春日野の坂を東に登った。しばらくすると大きな砦(とりで)のような城が現れて扉が開かれると牛車と馬車はその中に吸い込まれるように導かれた。また暫く時間が過ぎて馬車の中で京介が待っていると衛士の声が外から“ご準備が整いましたので、お会い下さるそうで御座います”と伝えた。京介はそれが誰であるのか誰が会ってくれようと云うのか、藤原不比等公は半年も前に薨去されたのにと思ったが、その疑念も僅かで消えた。馬車を降りるとそこは平城京を守るための軍団の駐屯地の中であるらしかった。とある建物に案内されて階(きざはし)を登る際に西側を望むと塀の向こうに遠く巨大な平城京の街が広がっているのが見えた。階を7段程登り時計回りに外廊下を歩き裏手から衛士に続いて建物に入ると中は少し暗くて目が慣(な)れなかった。女官に手を引かれて更に奥の部屋に入ると囲炉裏(いろり)が切ってあるのか、火が燃えており、明かりも兼ねているようであった。排気が工夫されているようであり煙たくもなかった。目が慣れて囲炉裏の側(そば)を見ると、先程牛車の中に乗っていた初老の男いや藤原不比等公らしき人物が眼光をキラッと光らせたように思えた。“藤原不比等公は薨去されたのではないのか”と京介が心に想ったと粗(ほぼ)同時に、囲炉裏の側の不比等公は口を開いた。“案じるでない。近(ち)こう寄るがよい。”と云われた。衛士と女官と京介は四角く切られた炉端に行き、京介は正面に女官は左側、衛士は右側に陣取ることになった。炉に活(い)けられた炭(すみ)が時々爆(は)ぜる以外はとても静かであった。不比等公は京介を見据えると“そちはわしに何か尋ねたいことがあって来たのであろう、まずそれを申してみよ。”と宣(のたま)った。京介は俄(にわ)かに言語障害者になったかのように、一度に多くのことが想い浮んで口が間誤付(まごつ)き思い通りに口から言葉を発することが出来なかった。それでも何とか元正天皇に託された質問である“藤原大臣の跡を継ぐ右大臣に長屋王を任じましたが、この人選が間違っているなんて事はないでしょうね。藤原大臣にそのことを尋ねてきて欲しい。”との内容を漸く不比等公に話を聞いて貰った。不比等公は暫く考えた風であったが、“長屋王なら間違いはないだろう。適格な良い人物とわしは認める。”と答えられた。“わしがこれまで気に掛けて居た事は、唐国の律令の制度を取り入れた時、科挙の試験は取り入れなかったのだが、このことがどのような結果を生むかについて、自分の存命中には確認することが出来なかったと思っている。人は国の民なら誰でも科挙の試験を受けて官僚に登用されるという全てに同様な登龍門があれば、それに受かった人が国を治めるのであれば納得もしようけれど権門や世襲による権力への関わりについては、すっきりしないものを感じるであろう。”

“天竺はちと遠いが、唐(から)の国では史書を見るとこれまで多くの王朝が勃興しまた滅亡している。しかしその王朝の盛衰の理屈は明瞭であり世々の乱れは王即ち皇帝の徳が無くなってきているのであり、新たな徳を持つ者が天に見離(みはな)された古い王朝を倒して新しい王朝を建てることが天の思し召しであると云う論理でこれまで遣って来ている。その度に古い王朝の生き残り即ち落ち延びた人々は、新天地を求めて周辺の諸国に亡命渡来してきた訳であり、日本は何波(なんぱ)にも亘(わた)るそれらの渡来の民が造り上げた国だと云える。従ってじゃが、日本ではそう云うような国の興亡を繰り返すとすると、日本より東には海が広がるばかりであり、倒される側の人々が亡命し渡来する地はない。これが唐と日本の違いであるとわしは考えた。ではどうすれば宜しいか。考えてみると不思議な事に日本には和の精神と云うものがずっと前からあり、諍(いさか)いをするのではなくて、出自の異なる多くの民が極東の地で生活を続けていくためには、易しく云えば仲良く暮らすのが一番だとされてきたのであろう。”

“唐や隋と全く同じ律令制度では日本に似合わないと思ったが故に科挙の試験は止めにして、代わりに学問所は都にも地方の国にも多く作ることにしたのじゃ。全国から優れた文人や武人を推薦し都に送り込むのは国司の仕事とし、都に集めた文人や武人を学問させたり訓練させたりして更に磨きをかけ、それらを国の政治のために自在に駒として動かす支配層については、今のところ天智天皇や天武天皇を支えてきた有能な支配人脈を貴族化して日本国を運営する道を選んだのじゃ。しかし、ここで少し問題があってな。これらの支配貴族の子弟が長ずるに及んで自身の父祖と同じように中央政界で生きようとすると同じ優秀さを引き継いで生れていれば良いのじゃが、これが千差万別であるものだから、無用な権力争いが屡(しばしば)起きてしまう恐れが大きくて実際にそれは起きておるのじゃ。科挙の試験で選ばれた人が上に立つのであれば人はそれを認めあるいは我慢もするのだろうが、なまじ権勢家に生れ育つと不出来な身でも自身の父祖を見て育つが故に自分の実力を錯覚してしまうことが本当に多い。人間の性(さが)とも云えるのじゃけれど、斯(か)く言うわしも、父・鎌足のことはよう周りから聞かされもし、この父を超えるにはどうすれば良いのじゃろうと自分の器量の小ささを嘆いた時期もあったのじゃ。

“こうして悩んだ末に思い付いたのが支配層の中での権力争いは血脈相争うが如きであっても防ぐ手立てがないのは仕方が無いのであって、それがために日本の国が分裂するようなことがあってはならない。嘗て唐の史書や百済の史書を読み知った事は、折角の一つの国が三国に分裂したりして互いに相争う時代が長く続くと民が疲弊するばかりで、世の中が栄えて行かないだろうと。支配貴族同士が身内で争うだけならば、国が分裂するような悲劇は起きない。唯そのためには人々にとってこの海東の蓬莱(ほうらい)の国、嘗ては倭国と云ったこの日本が出自・続柄の異なる人々全てにとっても同一の国であると云う共同体意識がなければならないと考えたのじゃ。即ち国を動かすのはその時々の政権を掌握している支配者であり、それが権力と云うものであるが、それだけではなくて、その権力を良しと高みから認めて呉れる権威なるものが必要であるのだろうと。それを唐・天竺では天の神とも呼んでいるようじゃが、日本では天皇を天津神(あまつかみ)の子孫であると云うことを、日本の誰もが分かるように平易に書き記(しる)したのじゃ。本当かどうか疑う向きもあろうが、年が経てばハッキリと神話が定着すると信じておる。そのために他の氏族の持っていた書物は焼き払わせたのも事実じゃ。これより東にも南にも陸地が無くて海しかない蓬莱島で、渡来の民が今も続々と詰め掛けるのであるから、受け入れて荒地への入植を親切に手伝い、日本の国を豊かにすると云うことに力を入れるためには、国を2分割したり3分割したりするような愚を避けねばならないと考えたのじゃ。極東の文化果(は)つる地であったのにも拘(かか)わらず、今では立派な国として日本の事を唐も認めてくれているのじゃから。律令制度を整えて国の形は造ったものの建国の精神については天武天皇の御世(みよ)においても未だ完了してはいなかったのじゃ。”

2017年7月13日 (木)

北円堂の秘密・その16(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

“話は推古帝の摂政をされた聖徳太子の事績にまで遡(さかのぼ)ることなのじゃが。兎も角、何度もそのことに挑戦はされてきたが、日の目を見ることが叶(かな)わずじまいじゃった。そこでわしはそれを遣り遂げることを晩年の仕事と定め、この山階寺に陣取ったのじゃ。仏(ほとけ)造って魂(たましい)入れずと云うことがあるじゃろう。国も同じであり唐を真似て律令を制定し国の形は漸(ようよ)う整って参ったが如何せん日本と云う共同体幻想が未だ希薄であった。多くの氏族は遠い昔に栄えた中華の秦であるとか漢であるとかの末裔を名乗り家伝を持つ者も多くいたのじゃ。しかしわしはそれらを集めて焼かせて、日本と云う国を始めることにしたのじゃ。すなわち大和魂と云う神の精を新しく造った日本の国に注入したのじゃ。建国の精神と云うところであるのだろうて。その道具立てに神々の序列の見直しと神話としての古事記の編纂、更にそれに続き漢語の日本書紀の編纂を目論んだのじゃ。神々の最高位には、国津神には遠慮して貰い、渡来氏族の天津神にも矢張り遠慮して貰い、天照大神(あまてらすおおみかみ)を置いたのである。”

“天照大神とは唐の偉大な女帝であった武則天(ぶそくてん)の名、武照(624705)の照であり、天皇とは彼女・武照(ぶしょう)の発案であったのじゃ。壬申の乱(672)を制した天武天皇は唐に友好的な勢力が支持した天皇であったから、唐の介入を受け入れて、その証として唐では禁字となっていた照を天照(あまてらす)と云う神名として用いて、武則天を神と崇(あが)めることにしたのじゃろう。日本にとっては古来、中華(中原ちゅうげん)が海の向こうにある天の原であり、高い文化を携(たずさ)えて海原を越えて渡来してきた民は神にも等しい存在であったに違いなかろう。”

“そちはわしのことを調べようと、わしの遺(のこ)した足跡を嗅(か)ぎ回っているようじゃが、何も分かるまい。わしは日本国の建国の精神を完璧(かんぺき)に仕上げた積(つも)りじゃから、その綻(ほころ)びを探そうとしても証拠は見付かるまい。唯(ただ)遠い将来において1000年先か2000年先か知らぬが日本国が唐天竺と同質になる程に成長した暁(あかつき)には、わしが施した大和魂の調合の手の内を知らしめても良かろうと考えた。じゃによってわしが集めて記紀編纂の資料とした旧辞・帝紀や諸豪族の家伝の類を燃やし尽くしたことに表向きはしているが、一部残しておく措置も取ってあるのじゃ。”

“これを暴(あば)いてしまうのは危険が伴うでな、営々と築き上げた蓬莱の日本国が国家転覆の瀬戸際とならないとも限らないのじゃ。百済(くだら)のようにじゃ、あれ程に立派な国であり、倭国などのお手本であったのに、新羅のような国に破れてしまった。民たちは自身の出自を知って仕舞うと、その古い方の共同体幻想に取り付かれてしまうでな。丁度子供が育ての親よりも生みの親に情を通ずるのに似通っている。国も同じような論理で集合離散を繰り返して来ておる。歴史はそれを雄弁に物語っている。”

“わしは倭国が任那を失って海東だけの版図の国となり今また百済の多くの遺民を受け入れて、大唐の支配下に入り、日本国と名乗るのであれば、自らの遠い昔の先祖の地の事は忘れてこの国に今や完全に根付いたことを語る物語を作ろうと考えた。古事記はその物語じゃから唐天竺の伝説や百済の神話などあるものは全部参考にして日本国の国の誕生物語に仕立てたのじゃ。殷の末裔も秦の末裔も漢の末裔も日本には嘗て大昔の事じゃが渡海して渡来し住み着いて今に至る。既に新天地のこの東海の島に立派に住み着いておるのじゃが、未だに先祖が殷だとか秦だとか漢だと言い張っていた。もうここらあたりで幾世(いくよ)も前のことは忘れて、この地が我が大地と思い定めて五族宥和(ゆうわ)して暮らす国となるべき時期が来たのじゃから。そのための共同体としての想い・幻想としてでも、国家幻想と云うのか、わしは大和魂として建国の勇者も物語には登場させたのじゃ。ヤマトタケル(日本武尊・倭建命)のことじゃよ”

“如何かな、わしに何か尋ねたいと申していたのではないのかな。”

京介と史美に似た女官は不比等公の話しを何時までも聞いていたが、言葉を差し挟む隙(すき)もなく、驚くばかりの内容であった。

“わしは父の鎌足公の好きであった六韜(りくとう)を同じく座右(ざゆう)の書としており、権謀術数には長(た)けておったようじゃ。どうしても政権争いの鍔迫(つばぜ)り合いとなると、先んじなければ遣られるでの。それでもなるべくなら血族同士で相争うことはないようにしたいのが人情じゃから。わしは四人の息子には仲良くすることはないが、いがみ合わずに自ら切磋琢磨して世に出よと申してあるのじゃ。”

“そうじゃ、肝心のそちらの質問のことじゃが、大方予想すればわしの後任となると云う長屋王については、やがてはわしの四人の息子共と政権争いになるやも知れんとわしは思うが、これとて唐の律令と云うものを日本にも制定した上は国の箍(たが)が固まっているので、国の中央の都辺りで少しばかり政権に乱れがあろうとも、日本の国体に傷が付くことは少しも無かろうと思う。大唐の威勢が此処日本にまで及んでいる今日であれば、外の国も日本国の反対勢力に加担することもないじゃろうから日本国が分裂する危険は有り得ないことになる。そのような時にも日本神話が何代かを経て定着すれば、嘗ての時代の百済を先祖とする氏族も新羅を先祖とする氏族もあるいはまた高句麗を先祖とする氏族も、一つの同じ日本神話の中で同体となり同一の夢を見ることが出来る筈じゃ。もう、東海の更に東や南へは陸地もなくこのオノコロ島で我等も我等の子孫も日本人として生きて行くのじゃと。和の精神は日本建国の精神であり、神話で繋ぎ合せた天照大神から繋がる天皇の系譜は皆の先祖の象徴としてこれからも日本の天(あめ)の下(した)を知(し)ろしめすのじゃ。分かるかな。”

“政権を争って人臣位を極めた者は、娘を天皇家に入内させて血脈を重ねることも出来ようぞ、そうではないか。”

“これまでわしが調べた史書に書かれている事は、そのようなものが多い。略(ほぼ)全てと云ってもいいくらいじゃ。権力を握っても、民はその権力を誰が認めるのかと見守りおるのじゃから。先の帝の血脈が常に流れておると云うのは分かり易い権威の与え方と云うことになるのじゃ。もっと簡単に云うと、大唐では皇帝が地上におり、天帝は天上にいるのじゃが、日本では天帝が天皇として地上に居る形を取っておるわけじゃ。”

2017年7月14日 (金)

北円堂の秘密・その17(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

“これにより、科挙の試験がなくとも、優れた人物の少ない日本じゃから科挙などせずとも優れた者は地方の国から都に集めればそれで良いのじゃ。また、わしの時代の政権を支えた者の子供たちにわしと同様に政権担当能力があるかどうかについては、先にも云ったように、互いに政権争奪の権謀術数の限りを尽くして勝ち残ったものが政権に就くと云うこれまでの弱肉強食の世界と云う訳じゃ。”京介は聞き疲れて頭が朦朧(もうろう)としてきたため、忘れてはいけないと、興福寺の北円堂のことを尋ねておかねばと心を引き締めた。そして漸く不比等公に尋ねた。

“不比等公の祀られることになる山階寺の八角円堂の御廟について、公は何かお考えがありましたので御座いましょうか。”藤原不比等公は暫くお考えになり、次のように話された。“先にもふれたと思うが、わしの平城京での10年間は、日本国の史書を新たに編纂する事に尽きた。そのために集めた昔の史書は、用済みになれば廃棄せねばならない。しかしわしはわしの物として書写した史書の類を燃やすに忍びず、わしのこの山階寺の山荘に持っておる。これをわしが居なくなった後にはこの地にある昔の古い墓の石室にでも納めてその上にわしの廟堂でも建てておけば誰も暴(あば)いたりしないだろうと申し遺してあるのじゃ。わしがそのように考えるのは、遠い先には此(こ)の国とか彼(か)の国と云う区別が無いような時代が来れば日本国の共同体幻想の呪文が解けなければならないじゃろうから。わしの創り出した建国精神の手の内も明かさねばならない。そのためにわしが下敷きにした史書の類は一通り密封して遺しておくこととしたのじゃ”

“それが1000年先か2000年先かは分からぬが、人は国同士が争うことの無い広い心で暮らす時代が来るやも知れぬ。その時のために、分からず屋に手品の種を明かすことも重要と考えた次第じゃよ。”

“わしは墓など要らんと思うておるし、廟堂もわしを祀ると云うてもわしの化身と云うことにして弥勒如来でも祀っておくようにと申してあるのじゃ。弥勒は羅馬国で流行(はや)っておったミトラ教の教主じゃそうじゃが、唐天竺でも人気が高くてな、今では弥勒菩薩として彼方此方にある。山城の太秦(うずまさ)の半跏仏もそうだが斑鳩の半跏仏も同じじゃ。まあ弥勒菩薩が如来となられるまでわしらの子孫が生き永らえられるかは疑問の点もあるので、わしは菩薩ではのうて弥勒如来として廟堂に据えよとも云っておいたのじゃ。”京介は興福寺の北円堂の本尊が弥勒如来であることを思い出していた。そしてまた、今度は次々に思い浮かぶ質問を不比等公に浴(あ)びせてみたくなった。

“不比等公は書紀に名を見出せる31の歳まで、何処で何をなさっておられたので御座いましょうか。”不比等公は暫くまた、何かお考えのようであったが、次のように口を開いた。

“何も隠すことはないのじゃが、大友皇子いや弘文天皇が大海人皇子(天武天皇)との政権争いに破れた壬申の乱が有ったのは知っておろうな。その時わしは14歳になっておったが完全な大人ではない故、近江朝廷の子弟ではあったが流罪措置の扱いで命を救われたのじゃ。田辺史の元に居ったのじゃが、東国へ行くことになっての。車持ちの君の母上の出所でな、相当に遠い処であったのじゃが、馬に乗ったり都とは違(ちご)うて面白い暮らしが出来たのじゃ。史書などはなくて毎日外で暮らして居ったわ。そこには兄の真人が既に居て一緒に暮らすことが出来たのは望外の幸せであった。兄は永らく渡唐していて帰国してからも直ぐに都から姿を消していた。父・鎌足の配慮にて兄は壬申の乱の影響を受けずに済んだ訳じゃ。わしはその兄・真人の東国の田舎の邸で1年ばかり暮らしたが兄の唐土の話しを聞くに付け自分でも大唐の地を踏んでみたいと思うようになった。わしはその翌年、新羅を経由して高句麗に至り陸路にて唐土に至った。日本国の新羅の出身氏族は本国とずっと繋がりを持っており、通行手形や路銀の工面はその人々に世話になり、彼の地では陸路や沿岸海路を行く商人の道を進んだのじゃ。新羅の国から唐土に入るについては新羅の人々が新たな通行証を発行して下さり、宿も路銀も不足はなかったのじゃ。この話は長(な)ごうなるでな。”

“唐土には5年居たのじゃ。そうして日本国に戻ると、瀬戸内の志度に住んでみたり、紀の国に居たり、山城の加茂に居たり都には戻れないのじゃから、流罪とは都の所払いの刑のようなものじゃから。地方の国を転々としておったのじゃ。皆(みな)中央政界では力の無い氏族の領地のような処であったが、わしは流刑の身を哀れに思われたのか、何処においても大事に持成(もてな)して貰(もろ)うたものじゃ。何故かと云うと田辺史の処でみっちりと史書の典籍を教わった所為で、文字が読めて書けたものじゃから、勿論新羅でも唐土でもそれが役に立ったのよ。唐土ではこの技(わざ)に磨きを掛けたのじゃ、嫌いではなかったからの。それとわしの父・鎌足の座右の書であった六韜も相当に役だったのではないかと思われる。人生の処し方を全て迷った時は六韜に答えを求めて来たのじゃ。矢張り唐土の人々の知恵には凄(すさ)まじいものがあって、人生の選択を誤ったことはなかったのではなかろうかな。この世を生き抜くには敵は作らないに越したことはないと云う訳で、皆が持て囃(はや)している者共の邸には近寄らず、落ち目となっていた旧(ふる)い氏族の処で匿(かくま)って貰い、やがてはわしが復権する時が来れば何か良いこともあろうよと云う位の、鷹揚(おうよう)な気分でわしは好きなだけ養って貰いそれぞれの邸でそこの子弟や娘と仲良くなっていったのじゃ。ところが運命と云うものは自分にも分らぬものだが、天武天皇が崩御なさるとわしにとっては姉の様な存在の持統天皇がわしの都所払いを取り消してお側近くに来るようにと云って来たのじゃよ。それが判事になる数年前のことであった。”

“以降わしは持統女帝の相談相手となり、正(まさ)しく父・鎌足と天智天皇のように、内つ臣(うちつおみ)に徹して仕えて来たのじゃ。大唐の下に平和な時代が続いておるのじゃから。日本国でも富の蓄積が進んで国庫は品物で溢(あふ)れるような時代を迎えておる。新羅と対抗するなどしなければ、これからも日本国は平和に栄えるであろう。わしは次代の者共に日本という纏(まと)まり感を建国の精神として遺すことを目指して史書を編んだのじゃ。今を生きておる者は書き加えた嘘(うそ)も見抜くじゃろうが、孫の代にでもなれば、この百済の借り物である神話も日本国に根付くだろう。下敷きにした史書は処分するのじゃから分かりようもなかろうて。但しじゃ、遠い先にわしらよりも優れた者共が現れ居出て遠い昔の話などを詮索するようなことがあれば、一つくらいは遺しておこうと考えもした。それでじゃ。此処の山階寺の地の石槨(せっかく)の上に八角円堂でも建立して、石槨に下敷きの史書を秘蔵することを思い付いたのじゃ。”

“ようく聞いて欲しいのは野次馬根性で暴(あば)いては困る。一度この下敷きの史書に日の目を当てれば日本国の神話の共同幻想はお釈迦(しゃか)になってしまう。日本も百済も新羅も高句麗も違いの無いものとなってしまうのじゃ。それではわしの考えた蓬莱の島に日本国を建国したという神話が無くなって仕舞い、人々は寄る辺を失い、自信をさえ失いかねないと云うことじゃ。人間の生きる力を合わせて立派な国を築いてゆくためには建国の精神が注入されておらねばならないのじゃ。このような大唐の果ての蓬莱島の日本国が大唐と同一に帰するような時代がもし、遠い将来に来るのであればわしの廟堂を暴いて下敷きの史書を取り出しても良かろうが。さて、そのような時代が来ることがあるのじゃろうか。わしは中々に難しいと思うておる。”

2017年7月15日 (土)

北円堂の秘密・その18(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

京介は他にも尋ねたいことが山ほどあったが、衛士が立ち上がり、女官の口から“時間で御座りまする。”との声がし、不比等公の面前を辞さねばならなくなった。京介はあともっと何か聞かねばと叫び声にならない声を発したと思ったら、その途端に目が覚めてアパートの部屋の天井が見えた。昨晩遅くに帰って着替えるのも面倒でそのまま寝てしまった京介がベッドに寝転んでいるばかりであった。

少し正気になり枕元の目覚まし時計を見ると午前7時を指していた。6時半のベルの音にも気付かなかったことが分かった。京介は徐(おもむろ)に朝の身支度のためシャワーを浴びて下着を取り替え気分を少しすっきりさせて、1週間の猶予を呉れた史美への報告について思念を巡らした。“それにしても不思議な夢を見たものだ。”と京介は夢の割には細部を克明に覚えている程に印象の強かった体験を、きっと信じないだろうと思われる史美に話すことが躊躇(ためら)われるのではと思いつつ、それでも大層不思議に思った。

7 結びの章

古都大学の歴史学教室の講義室では今日も元気な史美が待ち構えていた。講義室の扉を開けるや否や、史美に“上津先生、今日は一週間ぶりですね。先生のご高説を期待しておりますわ。”と最初からトーンが異常に高かった。少し奇妙な感じがする程に感じた京介は史美に“この一週間の間に何か重要情報でもあったのかい。”と確認を入れた。すると史美は“分かりますか上津先生”と自分から話し始めた。その内容は意表を突かれるような事態とも云えた。

“元彼から電話があって、奈考研の秘密裏の取組み方針が決まったのよ。実は北円堂の発掘調査に関して発見した銅板については、公表しないと云うことになったそうなの。老舗中華店の先代さんが発見して秘匿していた物品でもあり迷惑が掛かっても大変だし、詳しく研究が煮詰まるまで奈考研の金庫に眠ることになるわね。”

京介はこの件を奈考研もそう簡単に解明出来ないでいることを当然のように思い、当面の策としては仕方が無いと思った。興福寺の北円堂を急に解体移築に移せるとは考えられないことであった。まあ予算の手当てから見ても可なりの年数が必要となるに違いないと思われた。また興福寺のお寺サイドの事情もあることだし、宮内庁管理の陵墓参考地のレベルに近い扱いとならざるを得ないのが興福寺北円堂の置かれている今日の歴史的重要性を帯びた八角円堂をなす北円堂の特異性であり、興福寺の残存建造物で一番のものとの認識は変わらない。京介は奈考研の事情で公表を差し控えると云うのであれば、京介の見た夢の話を史美に聞かせることに抵抗を感じる必要が無くなったと云う訳であり、何か安心しホッとした気分がした。それで京介は昨夜の夢の話を史美にすることにした。

“実は不思議な夢を見たんだけれど信じて貰えるだろうか。”

“そりゃ聴かせて貰わなきゃ始まらないことよ。上津先生。”と史美は理知的な京介が夢だなんて、と内心は思ったのだがそれは曖気(おくび)にも出さなかった。京介は意外にはっきりと覚えている夢を最初から、一つ一つ自身でも再度の興奮に包まれて話し始めた。

不思議なことに近鉄電車の奈良駅を転寝(うたたね)して乗り過ごすと、更に延線された奥の奈良公園の地下に県庁前駅があったこと、県庁に登庁する職員たちの服が奈良朝の唐服であると気付いて驚いていると、もっと驚くことに県庁舎が平城宮の大極殿に替わって聳(そび)えていたこと、築地塀の有る門の入口から覗いていると衛士が現れて中に案内すると云うので附いて行き、途中で女官と3人の道行となり、元明上皇や元正天皇、それに橘三千代に御目文字(おめもじ)をした。藤原不比等が薨去して政権の大臣を誰にするか悩んだが長屋王に決めたと、このことを藤原不比等はどう思うであろうかなと心配している。そちは黄泉路の藤原不比等殿にお会いされるとのことであるので、このことを伝えて貰いたいと元正女帝より頼まれた。黄泉路の辿(たど)り方は分からなかったが、直ぐに馬車が用意されて山階寺の藤原不比等の山荘に案内された。途中、佐保川の橋の袂(たもと)で藤原不比等が養老483日に牛車の中で卒(しゅっ)した幻影を見せられた。そして山階寺に建てられたとある殿舎の中で、将(まさ)に生きているかの藤原不比等公にお会いしたのだった。藤原不比等公は律令国家・日本の建国について熱く語って下さいました。勿論、北円堂の八角円堂のことについても尋ねると明瞭に語って下さいました。“北円堂の秘密”とは古事記や日本書紀を編纂するに際して、下敷きとした数々の往年の倭国の史書を焚書(ふんしょ)せず北円堂の地下に眠らせてあることだと云う。但しその秘匿してあるものを天日(てんぴ)の下(もと)に曝(さら)すならば藤原不比等公が記紀に込めた日本の建国の精神が瓦解するかも知れないが、その点については慎重にするがよいと釘を刺(さ)された。律令制度は入れ物・箱であり、仏造って魂入れずでは困るので記紀の編纂により日本精神を日本の魂として創りだし注入したのじゃ。北円堂を暴(あば)くことは日本の国が只(ただ)の箱に逆戻りしてしまうことになるのだが、それでも宜しいかと。だが藤原不比等公曰(いわ)く、1000年いや2000年の後に人間的成長を倭人がみせて、大陸の唐天竺にも負けないようになった暁(あかつき)には北円堂の地下の古い史書を取り出しわしの手品の素(もと)を白日に曝しても良かろうと。

京介の藤原不比等が乗り移ったような話し振りに史美も圧倒されて聴き入った。生来(せいらい)口の重い筈の京介の口が勝手に動いて、見た夢の内容を寸分違(たが)わず史美に話し続けた。史美はじっと聴き入り、終(しま)いには陶然(とうぜん)としたような気持ちになり史美自身も京介の見た夢を自分が見たかのように感じられる程であった。

不思議な事に京介が史美に似ていたと云う女官と、元彼に似ていた衛士の姿まで眼前に浮かんで来るかのように感じた。のめり込み易い性格の史美は藤原不比等が乗り移ったかのような京介をもう殆(ほとん)ど藤原不比等その人であるかのように見ていたのであった。

史美が自分を取り戻したのは、京介が夢を全て話し終えて史美を見ると、まるで微睡(まどろん)で居るかのように見えて、“僕の話を聴いてくれたのか。”と揺さ振り起こされて漸く史美は我に返ったのであった。

“上津先生のご覧になった夢は、私には本当のことのように感じられましたわ。いや藤原不比等公の霊が乗り移って真実を上津先生に伝えたのかも知れないと思うわ。”と史美は史学者の端くれにも拘(かか)わらず非科学的なことを口にした。夢を話した京介も実は夢が正夢(まさゆめ)であるかと思う程の強烈な印象を抱いており、史美以上に科学者らしからぬ気分を拭(ぬぐ)うことが出来ないでいた。暫く二人は黙(だま)り込んでいたが、やがて史美が口を開いた。

“日本の歴史学は未だ未だ考古学的な発見により発展する可能性が残されていると云うことだろうと思うわ。藤原不比等公の研究も未だこれからって気がしたわ。奈考研には例の銅板の他にも倉庫に眠っているお宝が有るかも知れないし、X線やCTスキャンを使って古いお宝の再調査もする必要がありそうね。彼に聞いたんだけど、発掘出土品には今のところ意味不明のものが沢山あって、奈考研では山積みになっているものもあるそうだから、その気になれば何かが切っ掛けとなって、驚く発見があるかも知れないってところかもね。上津先生の夢の話が夢でなくなる日もそう遠いことではないような気がするわ。それまで私は史学会活動に精を出すことにする決心を此処で誓(ちか)いたいと思います。今回のことに懲(こ)りずに上津先生、古代史学へのご協力宜しくお願いしますよ。”

京介は倭人と渡来人の子孫たちが営(いとな)んで来た日本と云う国を未来永劫(みらいえいごう)、続かせるお呪(まじな)いとして、古事記は内向きに日本書紀は外向きに書かれたものだと云うことを、夢を通して確信したのであった。然(しか)しその確信は、北円堂の地下が調査されて、夢の通りに古史書が発見されて初めて世間が認める処となるのだが、希望的観測であるようにも感じられた。

講義室を出て、史美と別れた京介は熱っぽい頭を冷やすべく古都奈良の街を散策した。ここ数日、外の景色に気付かなかった所為か急に突然といった具合に、其処彼処(そこかしこ)の桜が満開となっていた。(完)

-------この小説のモデルは架空であり、内容は真実とは異なります。------

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