« 北円堂の秘密・その9(大町阿礼・作) | トップページ | 北円堂の秘密・その11(大町阿礼・作) »

2017年7月 7日 (金)

北円堂の秘密・その10(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

「藤原不比等は天武朝から取り組まれてきた律令制度を完成させるために、最後の云ってみれば国の形を造って魂を入れる作業として国の誕生神話としての古事記と、その後に発展した日本国の大唐帝国にも引けを取らない歴史書としての日本書紀を書き上げて魂を入れるところにまで漸(ようや)くにして漕ぎ着けたのであって、そのことについて成功したと云えるかどうか、未だ未だ後世に対して藤原不比等自身は不安も持っていたでしょう。だから自分よりももっと優れた者が政治家として後世に現れるならば、古事記と日本書紀は見直しを掛けて更に磨き上げることもできるように、自身が下敷きにした書物を保存状態は分かりませんけれど万全の処置をして秘匿したのじゃないかしら。そして北円堂を建立させて、生半(なまなか)なことでは掘り返さないように配慮したのだと思われるって訳かな。」「大唐帝国の世界の属国扱いであった倭国を日本という国として独立させるにはオリジナルな神話と紀伝体の史書がどうしても必要だったんだろう。多くの有力豪族の祖先は何れも中国大陸や半島から大昔に日本列島に海を渡り移り住んできた訳だから、それに藤原不比等の時代には当時も未だ未だ陸続と新天地の日本に渡来してくる人々は多かったに違いないのですからね。これらの新旧の渡来人たちが新天地で仲良く暮らしていくには中国の先進的な律令制度を取り入れるだけではなくて、どうしても協力し合える和の精神と云うか日本国という国体を樹立しておく必要が藤原不比等には強く感じられたのでしょうね。最初は細い木の苗のようなものであった訳だが、1300年も経(た)ってみると日本国と云う国体はびくともしていない訳だから、藤原不比等の日本国という国体護持の企図は成功したと云えるのかも知れないね。」

「でも藤原不比等は未来永劫日本国の国体に甘んじて国体護持に勤(いそ)しむのではなくて、もっと優れた政治家が出現するのなら世界は一つにもなれるってことも知っていた筈(はず)だと思われるよ。大唐帝国を藤原不比等は自身の目で見て来ていたとすれば猶(なお)のこと、古代の大帝国の素晴らしさ帝国の隅々まで安全に行き着くことが出来、人々が繁栄を謳歌することの素晴らしさを体験していたのなら、大唐帝国の外れにある属国的位置付の日本国であってもそのような形にしたいあるいは出来る筈と思ったとしても不思議ではないでしょう。古代の有力豪族の津守氏や物部氏や蘇我氏の列伝を下敷きにして取捨選択をして一つの建国のストーリーを作ることなど、当時日本の朝廷で重用していた百済人に頼めば簡単なことだったでしょう。それに当時何と云っても文字の読める人など支配層にしか居ない訳だから、史書を新しく編纂しても作った世代はその秘密を知っていても23代すれば真実の歴史として疑う余地が無くなることも良く承知していたでしょうから、それが日本国の国体護持の“おまじない”であるかの如く、各地の有力豪族のお話しを繋、(つな)ぎ合せて、誰も異存のないように全て摂(と)り込んで、万世一系の天皇という神話にすることなど朝飯前であったのでしょう。否、少し口が滑(すべ)ったかな。」と京介は少し自分で口を塞(ふさ)いだ。すると黙って聞いていた史美が云った。「そうね倭国の場合、半島と列島に跨(またが)る領域の国だったのではないかという説も最近では考古学者などが出されていますね。実は欽明天皇などは遺言で父祖の地が即ち任那のことだけど、半島にあったのに新羅に取られてしまったので取り返すようにせよと云ったということも書いてあるのよ。

“欽明天皇(卅二年辛卯)夏四月    朕疾甚。以後事属汝。汝須打新羅。封建任那。更造夫婦。惟如舊日。死無恨之。(自分は重病である。後のことをお前に委ねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。また嘗ての如く両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことは無い。)”」

「これはドーバー海峡を挟んだフランスとイギリスの歴史でも良く似た事が起きているわ。今では国の概念として国民国家と云うものしか知らない時代になっているけれど。奈良時代に来た唐招提寺の鑑真和上や唐に骨を埋めた阿倍仲麻呂なんかの頭の中には、まだ日本国なんて無くて大唐帝国の外れにある唐の属国という感じだったのではないかしら。」

京介は暫くお茶の空になったペットボトルを弄(もてあそ)んでいたが、少し重い口調で、「結局、銅板の数少ない文字列の意味しているらしきところを確認するためには北円堂の地下の石室を発掘調査するしかない。しかし、これは大変な難題である。」と云うと、史美も「奈考研としては興福寺から発掘調査依頼を受けているのは、飽(あ)くまでも北円堂境内の地表面下高々2メートル程度であって北円堂を解体移築するなんてことは、とても出来ない相談だろうと、引き続き本格的な北円堂直下にあると予想される石室の調査については相当に準備して掛からなければと、彼いや奈考研では考えているそうなの。」と云った。

京介はこれまで、幾度か史美の論文作成に少なからぬ協力をしてきたと若干の自信に似たものもあったのだが、今回の衝撃的とも云える銅板の発見とその特異な発見場所、即ち興福寺北円堂の境内と云う只(ただ)ならぬ関係を読み解ける自信は無かった。春休みはあと1ヶ月、秋の史学会に発表する論文の投稿期限は6月だから、あと4ヶ月と僅(わず)かな日数しかないのだった。史美は京介の困ったような顔も、自分の興奮気味な高揚した気分の所為(せい)で気も付いていないようであった。甚(いと)も簡単なことのように、「上津先生、これで、お伝えする内容は全てです。後はご質問があれば、メールででも下さいな。1週間の期間をとって、それぞれに研究をして、また1週間後の成果を持ち寄ってってことで如何(いかが)ですか。」と呆気(あっけ)らかんと、これまでに京介が史美に協力してきてくれた実績をバックに、微塵(みじん)も京介が内心不安を覚えていることには無頓着であった。言いたいことを言い終わった史美は気分がスッキリしたのか、「私、これでアヤを迎えに幼稚園に行くので、此処閉めといて下さいな。」と鍵束を京介に押し付けて意気揚々と講義室を出て行った。一人残された京介は、ここ4日間にレクチャーされた濃密とも思える日本史の課題について文献史学と考古学の狭間(はざま)の問題について、改めて目を見開かされた思いがしていた。「1週間あげるってか。」と呟(つぶや)きながら京介は電灯のスイッチをオフにし、鍵を掛けると講義室を後にした。

5 北円堂は夢殿

京介は翌日一人で興福寺北円堂の周りを歩いてみた。北円堂は興福寺の北西の隅にあるが、東と南の方面は奈良公園と云うか興福寺の境内そのものであり、北面は登大路に面したホテルの裏側になり、西側は民家に接していた。民家との境には築地塀(ついじべい)と少しばかりの雑木林があり、敷地高さの食い違いを石垣でカバーして繋いでいた。老舗の中華店の先代が子供の頃、その石垣の下の処に抜け穴の様なものがあったと云うので、奈考研の史美の彼も、気になって中華店の今の主人に石垣の現状を尋ねたところ、直ぐ近くだからと、親切に案内して下さって、近所の誼(よしみ)で民家の庭になっている石垣の処を見せて貰ったという。でもどこにも注連縄が張ってあったり、抜け穴のあったような気配は無かった。東向商店街の通りから北円堂に向かう坂の途中から、京介も目を凝(こ)らして石垣を覗(のぞ)いてみたが確かにそのような形跡は欠片(かけら)も見えなかった。京介は奈良公園の鹿が僅かに芽を出してきた草を食(は)むために遣(や)って来ていることさえ直ぐには気付かない程、血が上(のぼ)っていた。確か数年前に登大路に面した奈良地裁の前辺(あた)りで道路が陥没したことがあった新聞で読んだことがあったけれど、それは興福寺の境内の井戸の跡であったとか、今でもまだ明治の廃仏毀釈で無住となり奈良公園とされた興福寺の境内の発掘調査は事実上行われてこなかったのが実状である。近年になって興福寺の中心伽藍の辺りとか、春日大社の塔跡とかが僅かに発掘調査されたに過ぎない。現在の奈良県庁の建てられた頃でも発掘調査の方法自体が、まあ杜撰(ずさん)であっただろうことは想像に難(かた)くないと思われた。今でこそ小さな出土物にも注意を払うようになって来たが、当時はまあ、工事が遅れると困るということで嫌々(いやいや)調査をしていた頃だから尚更であったでしょう。

« 北円堂の秘密・その9(大町阿礼・作) | トップページ | 北円堂の秘密・その11(大町阿礼・作) »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/605040/65505844

この記事へのトラックバック一覧です: 北円堂の秘密・その10(大町阿礼・作):

« 北円堂の秘密・その9(大町阿礼・作) | トップページ | 北円堂の秘密・その11(大町阿礼・作) »