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2017年7月 8日 (土)

北円堂の秘密・その11(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

京介が奈良公園の地下に想いを馳(は)せてみると、そう云えば余り多くの記憶はないのであった。

奈良県中南部の高松塚古墳や藤ノ木古墳の天皇クラスの人の壁画や埋葬品の発見は2度の大きな古代史ブームを日本に巻き起こし、今もそのブームの火は消えることがないくらいであり、飛鳥京や藤原京には考古学ファンが色めき立ち更に時代の遡(さかのぼ)る巻向遺跡や秋津遺跡に関心が及んでいる。翻(ひるがえ)って、奈良県北部では長屋王邸の木簡の発見では少し賑やかになったけれども、平城宮跡の地下の木簡の発見が相次ぎ解読も少しは進んでいるようだが、皆があっと驚くような重大な発見はその後ない状態である。大体が奈良市内で過去に出土し発見されている古墳埋葬されていた銅鏡などたったの1枚でしかないくらいで、飛鳥などの奈良県の南の地域とは異なり、都が平安京に移った後も平城京は南都として人々の営みが続いたものだから、その時々に見付かった遺物はそれなりに生活に利用し、金物ならばくず金物として再び熔(と)かして他の金物を作る材料としたのではないかと考えられ、纏(まと)まった出土品が発見されることはこれまで本当に少なかったのが現状である。唯(ただ)、今回のように事実上アンタッチャブルであったような奈良公園、それも興福寺の最も神聖な領域を調査する機会に直面しているのであるから、この機会を何とかものにしなければならないと史美もだし、奈考研の彼も考えるのは不思議ではなかった。

京介は少し小腹が空(す)いたので、古都大学の学生食堂が春休み中も営業しているのであるから戻っても良かったのだが、気分を違えてみるために登大路の奈良商工会議所の地下にあるレストランで昼食を摂ることにした。この地下レストランは何度もリニューアルされてはいるが、この界隈では古く、司馬遼太郎氏が活躍されていた頃、奈良に来るとよく利用されていたとの店であった。サービスランチを注文して待つ間、京介はこのビルを建てる時も発掘調査はした筈だろうけれど、どんな出土品があったのだろうか、それともビルは古そうであり戦後間もなくの頃の建設であり埋蔵文化財保護法も無かったのかも知れない。ここも興福寺の境内の中心に近かったけれど残念ながら発掘して本気で調べられることは無かったに違いないと腹の減り具合によったのか自ら納得してしまうように考えて意気消沈するのであった。そう云えば数10年前に奈良公園で開催されたシルクロード博の時には県庁東の交差点に地下歩道を建設したことがあったけれど、調査したとは聞いていないなと少し昔のことを想い浮かべた。いやもっと昔には近鉄電車が油坂駅の場所と名前を変えた新大宮駅から地下に入り現在の近鉄奈良駅として地下に建設した訳だけれど、この時も大阪万博に間に合わせようとしていたから発掘調査なんてそれこそ頭になかったに違いないだろう。また、近鉄電車は三重県の伊賀上野まで延伸する計画をしたことがあり、その際は奈良公園から若草山あるいは春日山の下を地下トンネルを掘って柳生に抜けるルートを考えていたそうである。今でも近鉄奈良駅の1番線と2番線のホームが異常に長く奥まで続いている様に感じるのはそのせいで、実は登大路の下には県庁前の辺りまで、トンネルが掘られてあるという噂(うわさ)もあるようだ。しかし当時、日本列島改造論で沸(わ)いた日本でしたが流石(さすが)に古都奈良の中心をトンネルでぶち抜くと云う計画は皇居の直下に地下鉄を通せないのと同じように日の目を見ることは無かった訳であった。

中央リニア新幹線が名古屋から大阪に延伸されるルートには中間駅として奈良駅が設けられることになっているけれど、矢張り奈良公園の直下を抜けることはないだろうなと京介は、サービス定食の海老フライを頬張りながら思った。JR関西線沿いに名古屋から西進し奈良市付近とは云いながら京都府木津川市辺りに奈良駅が出来るのではないだろうか。元々、山背国(山城国)というのは大和の北辺の山地の裏側という名称だったのだから、また木津川市辺りは長く興福寺の所領であったし、聖武天皇の一時期遷都した恭仁京(くにきょう)は全くもって昔から奈良の文化圏であった訳だし。とどうでも良いような考えを巡らしながら、どうしたものだろうかと流石の京介も途方に暮れるばかりであった。食後のコーヒーを待つうち京介の脳裏に地下に届くドライエリアからの日照に、ふと興福寺北円堂の地下にも日差しが届くことはないのだろうかと、かつて石室の倉の中に様々な貴重な書物の巻物を山のように積み上げていて、今もそれが存在するかも知れないと云う只(ただ)ならぬ夢想を生ぜしめた。

地下レストランで思考を続けようとしたが、食事で胃に血流が向かっているのか考えは纏まらなかった。コーヒーも飲み終わり地上に出ると初春の陽光が目に少しばかり眩(まぶ)しかった。

登大路の広いバス道を挟(はさ)んで南側には春日ホテルや登大路ホテルが見える。そのホテルの更に南側に北円堂は建っているが叢林(そうりん)の中に隠れて、こちらからはその八角形の優美な屋根が見えない。京介は奈良県庁の手前から興福寺の参道に入り五重塔の前に屯(たむろ)している数頭の鹿に鹿せんべいを与えた。10枚のせんべいは瞬(またた)く内に無くなり、未だ欲しそうにしている鹿を後に、南円堂に向かって歩いた。これまで古都大学の准教授をするようになってからも、日本の古代史と云うか奈良時代というものにそれ程興味が無かった所為(せい)か、それとも仏教の抹香(まっこう)くさい匂(にお)いを好きになれなかったからであるのか、興福寺の北円堂が眼中になかったというだけでなく、南円堂についても西国三十三所の第9番札所ということで、滅多(めった)に近付いたこともなかった京介であった。ただこうして改めて、南円堂と北円堂について繁々(しげしげ)と見比べてみる気にさせられたのは、何か今回のことを解決するための糸口がないだろうかと云うことであった。南円堂の南側は少し崖のようになっていて北円堂と同じように小さな台地状になっている興福寺の中心伽藍のある台地の端に位置しているのだった。もしも平城京遷都の行われる前にこの辺りに巨大な前方後円墳などがあったとすれば、今の東向商店街や猿沢池の辺りは周濠(しゅうごう)であり、鴛鴦(おしどり)などが営巣していたことだろうと思われた。墳丘の高みを削って少し平(たい)らかにしても、地中に残っていた巨大な石室はそのままにしていたことだろう。南円堂の南側の崖の下から南円堂を見上げると北円堂よりも一回り大きい八角円堂が更に大きく見えた。この崖下にはひっそりと興福寺の三重塔が建っていて静かなところであることを京介は初めて知った。奈良に暮らしていると身近な処は慣(な)れっこになって関心を抱くことが少ないのかも知れないが、京介はこれまで興福寺については、興福寺というよりも奈良の入口の五重塔があるところくらいにしか意識して来なかったのだろう。

三重塔から北円堂に向かって坂道がありゆっくりとその坂道を登ると次第に北円堂が坂の上に姿を現わすという中々趣のある坂であった。今は北円堂の周りを奈考研の発掘調査中の無粋なバリケードに囲まれているが、それでも十分にお釣りのくるくらい文化財に恵まれているという景観に溢(あふ)れていた。京介が一歩二歩とその坂を南から北に登りながら南円堂の西側の大樹の枝が坂道の上を覆(おお)っているところを抜けると、北円堂の天辺の五条大橋の擬宝珠(ぎぼし)にも似た火炎宝珠が良く見えた。そして尚(なお)も進むと、京介の頭にふっと法隆寺の夢殿のイメージが浮かんできた。その夢殿のイメージは今眼前に見える北円堂と一つに頭の中で重なってしまうのだった。

法隆寺の東院伽藍にある夢殿は紙幣の図柄になったりしており、日本人なら誰でも知っている訳であり、当然にして京介の頭の中にも法隆寺の夢殿のイメージは消し難く残っていた。そこで不思議に思ったのは、何故、興福寺の北円堂の姿が法隆寺の夢殿に似ているのかと云うことであった。勿論、南円堂などは江戸時代の再建であり、北円堂を真似ているそうであるが、正面に唐破風(からはふ)を配していたり、少し規模を大きくしているために南円堂が北円堂に似ていると思う人は少ないだろう。それなのに京介の頭には、法隆寺の夢殿と同じ雰囲気が、この興福寺の北円堂の姿にダブって感じられるのであった。

飛鳥時代から奈良時代にかけては記紀並びに続日本紀が整備されていて何でも一応は説明のつく時代のように一般的には思われているのだけれど、法隆寺再建論争など、史学会でも火種が残っている状況であり、門外漢にとっては世界最古の木造建築物の言葉に惑わされていて、法隆寺の建物は全てが飛鳥時代の建造であり、決して奈良時代のものではないと信じ込んでいる人さえ多い。京介もつい最近までその一人であったことを自白せざるを得ないのである。

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