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2017年7月 9日 (日)

北円堂の秘密・その12(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

しかし先日、古都大学の図書館で手近な文献を拾い読みしたところ興福寺北円堂の創建は藤原不比等の薨(こう)じた翌年721年であり、一方法隆寺夢殿の創建年は奈良時代の中頃、興福寺の僧・行信によると書かれていた。但し、現存する北円堂は4度の火災による焼失から度毎に再建されており、現在の北円堂は鎌倉時代、鎌倉幕府の南都復興事業により再建されたものであり、法隆寺の夢殿は奈良時代の創建伽藍としてそのまま遺(のこ)ってきたものであるので、現存する八角円堂同士で築年の古さを比較すると圧倒的に法隆寺の夢殿が古いことになる訳である。また更には法隆寺夢殿に祀られている救世観音のおどろおどろしい明治時代の話、即ちフェノロサと岡倉天心が1000年間封印されていた夢殿の秘仏・救世観音を開扉し梱包を解かせた事実により法隆寺の凄(すご)さが喧伝(けんでん)されてきたという事かも知れない。梅原猛(うめはらたけし)氏が歴史小説として書かれた「隠された十字架」は1970年頃一世を風靡(ふうび)し今も古代史ブームのファンを魅了し続けている。

京介は「隠された十字架」を買って家の何処かに持っている筈ではあるが、内容を理解するには単なる歴史小説を超える学術性が高く、遂(つい)に完読出来なかったことがあった。まあ京介にとって古代と云う日本史の領域にそれ程の興味が無く中世の終わりから近世の辺りが何と云っても遺(のこ)された書物も多く面白いのであった。古代の面白さには未だ開眼していなかったと云えるのかも知れないのだけれど。少ない資料から大胆な推理をするような学術については理論物理を専門としている京介にとっては、石橋を叩(たた)いていないように思われた。唯(ただ)だからと云って史美の協力依頼を無下に断る訳にもいかなかったからだが、北円堂についてよりも北円堂に似ている夢殿のことを少しく理解すれば何かこの問題を掘り下げる糸口が見付かるかも知れないと京介はほっとするような、でも一方では北円堂から少しの間、逃げ出す理由を発見したのだった。

北円堂の本尊は運慶仏として仏教美術の面で有名であり弥勒如来像となっている。弥勒は菩薩像が本来の姿であるところを藤原氏の実質上の初代である藤原不比等が入滅の後も弥勒如来として顕現して藤原氏の末裔を護って下さると云うことになっている。また弥勒如来の両脇侍には大乗仏教の唯識学を大成させた無著・世親の兄弟像が配されており、更に左右前には法苑林菩薩像と大妙相菩薩像が広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像の姿で座っておられる。

ところで北円堂と同じ八角円堂を一回り大きくした興福寺の南円堂は平安時代の初め(西暦813年)藤原氏の権勢に翳(かげ)りが見えたので、嘗てのように復権をするために空海に頼んで不空羂索観音を祀るお堂として創建したのが始まりである。空海の寺としては高野山とか京都の東寺が今では有名だが空海の存命中は平安遷都後の平城京即ち南都における救世主のような存在で、東大寺の別当を務(つと)めたりこの興福寺にも深く関与していた訳である。今に至るも奈良県に真言宗の寺院が多いのはその所為でもある。空海は藤原冬嗣の依頼を受けて藤原不比等の北円堂があるではないかと思ったのだろうけれど、当時は既に観音信仰が流行しており中でもご利益の大きいとされた不空羂索観音を造像し興福寺の西金堂を挟んで南北に八角円堂を建てることを思い付いたのだろう。南円堂のお陰であるのか藤原家の中で北家だけが後々栄えることになる。まあ元々八角形の円堂と云うのは飛鳥時代の天皇稜に見られる通り、“国の八角(八方)を知ろしめす”という意味を持ち、高貴な人のみに許された形であった訳である。例え廟所として祀るお堂であるにしても八角円堂は時の政権の最高位にある人のみに許されたものなのだろう。藤原不比等の子藤原武智麻呂も実は八角円堂に祀られている。藤原南家が政権中枢にあったとき藤原仲麻呂が父・藤原武智麻呂を祀る八角円堂を奈良県五條市の栄山寺に建立しており、その八角堂は現存最古の八角円堂として当然国宝に指定されている。

何れにしても、西暦721年に藤原不比等を祀るために元明太上天皇と元正天皇が長屋王に命じて建立させた興福寺の八角円堂は、左大臣の居ない政権中枢で人臣第一等の位置にいた藤原不比等を生前の業績を顕彰し薨去後の菩提を弔う意味において最高の形式を国家権力の名において施されたものであったと云えるだろう。因(ちな)みに以後の時代においては八角円堂の構造の複雑さによる建方の難しさを別とすれば、八角円堂が建てられた例は数少ないと思われる。後は法隆寺の夢殿が聖徳太子の廟所として興福寺の僧により建てられているものと同じく、法隆寺の西院伽藍の西に西円堂として多分恐らくこれは藤原不比等の夫人であった橘三千代のために橘諸兄(たちばなもろえ)あたりが建立したのではと考えられるくらいである。

時代が下がると八角形は六角形となり六角堂なら京都辺りに少しは現存する程度である。兎も角、人臣最高級の扱いを藤原不比等が受けた事は八角円堂の形から確かであり、その地が終焉(しゅうえん)を迎えた藤原不比等自身の山荘跡と思われる現在の平城京外京の興福寺の地であることも、如何に時の女帝であった元正天皇が藤原不比等を頼りにしていたかが分かろうと云うものである。藤原不比等のその身は荼毘に付して佐保丘陵に葬っても藤原不比等が平城京の大極殿ではなくて自身の晩年の私生活を送っていた山階寺に廟堂形式で祀ってあげたことは元正天皇にすれば藤原不比等に政局の相談を持ち掛けた生前を思い出せるように、願えば北円堂の本尊として安置した弥勒如来像が名案を出して呉れるのではとの想いから建立し藤原不比等亡き後も日本の政権の安定が続くことを祈る場として興福寺そのものも官寺の格にして本格伽藍の整備の詔(みことのり)を発したものと思われる。最近の文献史学の研究によれば聖徳太子が数多くの制度をお作りになったというのも、実は藤原不比等の時代の律令制度の整備に相当することであるのに日本書紀や古事記の中には聖徳太子の時代に太子が為された業績として書かれている。これこそは藤原不比等の深謀遠慮の為せる業(わざ)ではないかと考えられる。このような事情を知っていた興福寺の僧がこれをもっと完全にするために法隆寺に夢殿を建てて聖徳太子こそが日本の国の基礎を造った人であると後世太子信仰の始まりとなる目論見(もくろみ)を行ったのではないでしょうか。この辺りも藤原不比等の自分は絶対に表に出ない名を出さないと云う完全主義が時代を下がっても未だその意を受けた僧によって実行されていることからも推測されるところである。藤原氏は実質的には藤原不比等を開祖とするがその出自は百済の王族との説もあり、乙巳の変(いっしのへん)で滅ぼされた蘇我本宗家とは近い間柄であったとも考えられている。聖徳太子は蘇我氏の最高のプリンスであった訳であり藤原不比等は聖徳太子に憧(あこが)れていたものと考えても不思議ではない。藤原不比等の業績は律令制度の整備から国史の編纂、更には維摩経(ゆいまきょう)を好んだ点に至るまで聖徳太子と瓜二つのようなところが見受けられる。藤原不比等は自身の業績を推古女帝の頃に政権を支えた聖徳太子に遡(さかのぼ)らせて仮託し自分の存在を歴史から消したとも考えられる。従って北円堂は藤原不比等の夢殿であったといっても過言ではないだろう。

京介は北円堂と夢殿の堂々巡りに頭の中が疲れてきたのか、少し陰(かげ)ってきた春の日差しに身震いしたのを機に北円堂に祀られている藤原不比等に一礼をして北円堂を漸くのことで立ち去り、東向商店街に向かう坂道を下りた。

6 不思議な夢

その後、数日、京介は史美から預かった古都大学の歴史学教室が保有する主な藤原不比等に関する文献のコピーや、自身で集めて来た書籍を片っ端から読み続けることにした。幸い、京介には速読の心得がありこのような場合にはとても役立った。

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