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2017年7月10日 (月)

北円堂の秘密・その13(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

また藤原不比等にふれた書物は本家本元の藤氏家伝から不比等伝が滅失していることを皮切りにして、歴史上の有名人にしては本当に数少ない部類であることも与えられた日数の少ない今回の件については幸いであった。それでも古都大学の京介のさして広くない准教授室は書籍や資料でコーヒーカップを置くテーブルの上の場所さえ占領されている始末であった。

資料を読む順番を考える暇(いとま)もなく京介は集中心を高めて速読を続けた。京介の頭の中では読み込んだ内容の取捨選択や順番の並べ替えと重要度の重み付けを行うべく何回も記憶を引き出したり、思い出す作業を繰り返した。そうすることにより藤原不比等と云う歴史上の人物が、京介の脳裏にバーチャルイメージとなり語り掛けてくるまでになるのが理想であった。京介が短期日に覚え込んだ内容は史学会の藤原不比等にふれた学術論文や学術雑誌から、古今の高名な歴史学者の藤原不比等像や評論から果ては歴史小説の類に至るまで多岐を究(きわ)めた。歴史小説も昨今あまりバカに出来ない代物もあるようなので奇想天外であろうとなんであろうと藤原不比等を扱ったものであれば目を通すことにした。但し、ゲームキャラクターであるとか不比等の文字に共鳴したかのような類のものは避けたけれど、また漫画などには原作本が有りそうでないものもあり、バーチャルイメージを描き易いこともあり、イメージの固定化を仮り物と認識したうえで利用もすることにした。全くもって藤原不比等と云う人物は、自身を歴史の襞(ひだ)に隠してしまったかのように、中々に京介の脳内に像を結んではくれなかった。

藤原京と平城京の二度の遷都を実行し、時の女帝の孫に当たる文武天皇と聖武天皇の実現を画策したその手並みは藤原不比等を置いて他、史上類を見ないだろう。そのような大立者をイメージするには本当に歴史学的事実が少な過ぎるのであった。史学会に属する学者達は史美のような若い人を除いて保守的であり、記紀の解釈を少ない材料のもとに大胆な構想を練ることは不得意であり、人文科学としての信憑性(しんぴょうせい)が保証されないと考えていた。一方素人はある種怖(こわ)いもの知らずのところがあり史実(しじつ)の空白期間については様々な妄想(もうそう)をして藤原不比等を全国各地いや唐土にまで神出鬼没させるのであった。只(ただ)正史の中で垣間見える藤原不比等は西暦68931歳で持統朝の判事として登場することが日本書紀に書かれており、それが初登場であり、養老4年(72083日に62歳で亡くなったことが続日本紀に書かれており、同1023日には太政大臣正一位を追贈されたと云うことが分かるのみである。他には大宝律令、養老律令のことがあるのみである。現在の日本の政府の官僚組織の始まりというか日本の国の形を決めたときの宰相(さいしょう)の立場にあった人が藤原不比等しか居ないということは状況証拠としては歴然としており大した人物であったに違いないということは、如何なる歴史学者もこれまで異論というようなことで口を挟んではいない。しかし、積極的に国事を藤原不比等唯一人で決めたとか、いや多くの官人たちのチームワークによったのだとか、論ずるにしても決め手がないということであった。只近年の考古学的出土物の発見やその学術的解明が進めば、記紀に書かれた文献史学の学問世界が活況を呈するのは理の当然と云えた。

京介は現在の子供たちが習っている教科書にも目を通した。気になることと云えば藤原不比等が娘の光明子を聖武天皇に嫁(とつ)がせて、後の藤原氏の時代を出現させる基(もと)となる活動を始めたと書かれている事ぐらいであった。記紀を読めば藤原不比等のみが天皇家の縁戚に連なり、皇親政治を押さえて天皇の祖父として政権を手中にする後の平安時代の藤原氏の摂関政治の先駆けであった訳ではなく、記紀に登場する豪族の多くは娘を宮中に参内させてその機を狙(ねら)っていたというのは確かなことである。ただ後世この方法を藤原氏が得意としほぼ平安時代を藤原時代と名付けられる程に次々と成功し日本の国の政権そのものが摂関政治となるような素地(そじ)を作ったのはひょっとすれば、いや実は藤原不比等の深謀遠慮であったのかも知れない。残念と云うか藤原不比等の画策した娘・光明子の活躍は藤原不比等の没後のことになったので、存命中に自身の野望を目にすることはできていないけれど、藤原不比等の筋書き通りに事が運んだことは歴史が示している訳である。

京介は得られた書物や資料を全て読み終えると、藤原不比等のプロフィールを頭の中に想い浮かべることにした。中世から戦国時代の歴史上の人物であれば小説の類も多く、映画やドラマになっているため過去に見た覚えのある俳優の演技であるとか脚色されたイメージがそのまま想い浮かぶので、ある意味便利であるのだが、古代の人物についてはTV・映画ともに極めて稀(まれ)なため、京介の頭の中に既存のイメージファイルが用意されている訳ではなかった。

京介は日本の有名な俳優を当(あ)て嵌(は)めてみたりしたが、何故かしっくりくる役者は居なかった。藤原不比等の画像としては談山神社の藤原鎌足像の掛け軸の下側左右に兄の定恵と不比等が小さく描かれているのが、唯一あるくらいで、それも後世のものである。焦点が暈(ぼ)やけたままで藤原不比等のイメージが固まらないままに京介は、今回の史美からの協力依頼の内容を反復してみた。史美は元(もと)夫の彼から「奈考研の北円堂発掘調査において発見された銅板に文字列が刻まれており、その断簡の文献史学的な学術調査を極秘裏に協力して欲しい。」と依頼された。そこで、史美は同じ古都大学の理学部に席を置く京介に、これも極秘裏に手伝って欲しいと、門外漢ながらこれまでの友達付き合いの中で、歴史への並々ならぬ造詣(ぞうけい)を感じ取っていた史美は秘密であるが躊躇(ためら)わずに京介に自身の集めた藤原不比等の資料コピーと共に、例の極秘扱いの銅板の文字列資料コピーを持ってきた。

藤原不比等に私的な権勢欲があったことは従来の政権に就いた豪族よろしく娘を宮中に参内させてはいるけれど、それも2度に亘(わた)って、娘の光明子を聖武と娶(めあわ)せるその一代前の文武天皇に娘の宮子を入内させて、聖武天皇はその間に生れた子であり、藤原不比等の外孫であった訳であり、人並みの権勢欲があったことは確かだろう。しかし、問題はその点にあるのではなくて、30代~40代にかけては大宝律令や養老律令を手掛けて、日本の律令制度を完成させたこと、また晩年の50代においては国史の編纂に注力したのではないかという点であり、記紀には確かに律令制度に藤原不比等が関わったことが書かれている。しかし、国史の編纂については藤原不比等の関与を示す記述は見当たらない。ところがこの度の北円堂の発掘調査により発見された銅板の文字列には帝紀など国史に関係する文字が刻まれており、藤原不比等が記紀の編纂に関わっていたことが証明される訳である。このことは更に追求すれば“日出(い)づる国を形づくった聖徳太子の事績”と悉(ことごと)く似ていると思われ、興福寺の北円堂は法隆寺の夢殿と繋がっているという歴史を逆流させるかのようなトリックを記紀の記述から読み取らねばならないと云う問題が提起(ていき)されそうでもあるのである。また別の角度から見れば法隆寺は聖徳太子の所縁(ゆかり)の寺であり、その斑鳩(いかるが)の地の太子を祀る法隆寺を藤原不比等が国史の編纂所として活用したのかも知れない。一般には学問所として経典の解釈に明け暮れたとされているけれども、もっと日本の国の形を整えるのに大切な国史即ち日本書紀の編纂所であったのではなかろうか。そして夢殿建立は藤原不比等の遺言を実行したとも解釈されても可笑しくはないのだろう。

京介の頭の中には詰め込んだ資料のデータが少しづつ配置転換を繰り返し、ジグソーパズルが解(と)けていくかのように大きな骨組は固まりそうであった。が、未だ未だ素人作家の歴史小説の他愛(たわい)もないような珍説が時に頭を占領することもあった。

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