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2017年7月11日 (火)

北円堂の秘密・その14(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

京介は若干、頭の中が混乱し休めてやる必要を感じた。もっと簡単なことを想い浮かべてみよう。例えば藤原不比等が纏(まと)っていた衣服についてはどうだろう。まるで安物の時代考証さながらであるが、目先を変えると少し頭の中に余裕が生れた。多分、奈良時代の貴人は唐服を着ていたと思われる。唐服は乗馬も出来る装いであるから、体にぴったりとしていて現代人の衣服に近いものであったと考えられている。唯(ただ)、これまでの教科書の奈良時代の想像図は平安時代と変わらないものであったので、奈良時代以前の唐帝国の文化圏の東の外(はず)れではあるけれど、唐の文物が略(ほぼ)100%日本に到来していたことを特筆しておくことは大事だと思われた。余りに古い古墳時代の埴輪(はにわ)の貫頭衣(かんとうい)程みすぼらしいものではないと云うことは良く理解しなければならないところであろう。白鳳期や天平期の仏教美術の華である仏像の纏っているハイセンスな衣裳(いしょう)を見れば、平安時代のだらしないとも云える衣冠束帯や十二単(じゅうにひとえ)は奈良時代の人々から見ればがっかりしたかも知れません。女性にしても興福寺の阿修羅像のような薄絹を纏って宝飾でインド女性のように飾っていたに違いないのですからね。

京介は暫く服飾雑誌かファッションショーのように奈良時代の衣裳を考証して、まあこれ位にするかと、古都大学の准教授室を出た。明日は史美のくれた1週間の猶予の終わる日であり、美味しいものでも食べてアパートに帰ることにして、自分の心身に前祝いでもあるかのご褒美を与えることにしたのであった。その晩、京介は久し振りに鱈腹(たらふく)御馳走(ごちそう)を食べてアルコールも少し摂(と)り、さすがに頭は回転せずに夜の寝付きは早かった。明くる日は史美の処へ例の古都大学の講義室へ午前9時に行くことになっていた。

朝方、目が覚めて、枕元の時計を見るとぐっすり寝た所為か遅刻気味であった。慌(あわ)てて買い置きのサンドイッチを頬張りアパートを駆け出し電車に飛び乗った。電車は平城宮跡を通り過ぎあと一駅(ひとえき)で終点の近鉄奈良駅に到着するのである。京介は最後の一駅のあたりが一番電車に揺られているともう一(ひと)眠りしたくなる気分によく陥(おちい)ることがあった。その日も気が付くと“次は県庁前、興福寺へお越しのお客様はこちらで下車なさるのが便利です。”と車掌のアナウンスが聞こえてきた。“おやっ、近鉄奈良駅で降りるのを寝過してしまった。”と思った。不思議な気分ではあったけれど、電車がホームに停車すると“県庁前、奈良県庁前”とちゃんと駅員のアナウンスが聞こえてきた。京介が奈良県庁に登庁する職員に交じって地上に出ると朝の光に目が眩しく感じられた。一瞬目を瞑(つぶ)って再び目を開けるとそこには県庁はなく登庁する職員と思っていた人々は唐三彩の人形が命を吹き込まれたかのように歩いていた。皆、数日前に京介が見た資料に書かれていた唐服を身に着けていた。京介の目には中国の北京の故宮の様な建物が青や赤の丹の色も鮮やかに建ち並んでいる光景が見えてきた。唐服の人々は朝の出仕する官吏のようであり、それぞれの衛府の建物の中に吸い込まれるように消えて行った。取り残された京介が近衛門と書かれた大きな門から宮廷らしきところを覗いていると、凛々(りり)しい武人の出で立ちをした衛兵が近付いてきた。衛兵は全て心得たような顔をして“何でもお望みのところへご案内致します。宜しければ私に附いて来て下さい。”と云った。京介は云われるままに大きな朱雀門を潜(くぐ)り、とても広い白砂の敷き詰められた広場をずんずんと歩いて一番奥にある一際(ひときわ)大きな大極殿らしき建物の手前の小さな建物に案内された。そこには一人の女官が待っていた。女官は京介を見ると唐服を一揃(ひとそろ)い出して“これに着替えるように”と云った。女官に手伝って貰って着てみると中々に快適で動き易く感じた。女官は京介の着替えが終わると“さあ参りましょう”と云い、衛兵を先に立たせて自分は京介と並んで歩き始めた。女官の顔は史美に似ているようであり、衛兵の顔は史美の元夫である彼に似ていた。大極殿への入口は厳重に警護されていた。衛兵が何か通行札らしきものを見せると、警護兵たちは直ぐに扉を開けて通路を指示して呉れた。何ヵ所かの関門を通り漸く太い柱が並びとても天井の高い大極殿に入れて貰えることになった時、京介は思わず隣の女官に質問を浴びせた。“何方(どなた)のところへ私を案内して下さっているのか教えて頂けませんか。”すると女官は笑みを浮かべて、“まあ、上津先生がご自分でお会いになりたいと御申出されたのではありませんか。”と不思議そうな顔をした。衛兵も京介と女官の遣り取りを聞いていても、歩を弛(ゆる)めることはなく、ずんずんと大きな建物の中央に進んでいた。ある几帳の前で衛兵は止まり几帳の陰に居る人物に何か話し掛けた。そこで京介は椅子をすすめられて座って暫く待たされた。やがて几帳が取り払われて大極殿の一段高くなった処へ上ることになった。案内された場所からは大極殿の中央部が良く見渡せた。続々と唐服の高官たちが居並び始めていた。これが百官の集(つど)う将(まさ)に朝堂の様子なのだなと京介は静かに息を詰めて見守った。高官たちが並び終えると、控えの間らしき処から大極殿の更に高い処に移動する人影が見えた。同じ唐服ではあるが金糸を使ったりして煌(きら)びやかな服装の人たちであり、身分の高そうな女性であった。玉座のよな大極殿の中央の奥に設(しつら)えたところに御掛けになると、一斉に居並ぶ高官たちの視線がそこに注(そそ)がれた。

女官が小声で“元明太上天皇と元正天皇、それに従っている女官の橘三千代さまです。”と教えてくれた。

そう云えば元正天皇の御代(みよ)の養老4年(72083日、藤原不比等が薨(こう)じてより、翌84日舎人親王を知太政官事、新田部親王を知五衛・授刀舎人事すなわち近衛長官に任じてはいたが、国の政務を人臣第一等で掌(つかさど)っていた右大臣の後釜を決めるまでには時間が掛かっていた。漸く、1017日には藤原不比等が山荘としていた山階寺を官寺格にするべく(養民司・造器司)・造興福寺仏殿司の三司を設置した。そして1023日には長屋王と大伴旅人を不比等邸に出向かせて藤原不比等に正一位・太政大臣を追贈するとの詔を伝えさせた。そして年が変わった翌養老5年(721)正月五日に至り、長屋王に従二位を授け藤原不比等の後任として右大臣に任じている。また同養老5217日には“去る庚申(かのえさる)の年(養老4年)には朝廷の模範の人物であった藤原大臣が俄(にわ)かに薨去し、朕の心は悲しみに慟哭(どうこく)した。”との元正天皇の述懐“遂則朝庭儀表。藤原大臣奄焉薨逝。朕心哀慟。”が続日本紀に記されてもいる。これ以後についての日本の歴史は続日本紀に記される通り、謎めいたところもあまりなく、淡々と続いているように見受けられた。

京介は平城宮の大極殿で久々に開かれた朝議に参列していることが漸く理解できた。それで女官が云うには“今日が正月五日であり、長屋王が右大臣に任じられる”のだそうであった。京介は群臣の中に長屋王の姿を探そうとしたが、余りにも大勢の中なので分からなかった。思い直して元正天皇の臨席されている筈の方角を少し見上げてみたけれど、これも小体(こてい)な几帳などが邪魔をして見通すことが出来なかった。その後も京介はずっと待たされていたが、数刻が過ぎて漸く朝議が終わったようで元正天皇にお目通しが叶(かな)うことになった。京介は自分からは一度も元正天皇にお会いしたいと申し出た記憶はなかったのだけれど“さあ元正天皇が御待ちになられています。”と女官に云われ衛兵に誘導されると幾つかの几帳の前を過ぎて、一際立派な几帳の前まで進んだ。するとスルスルと高御座(たかみくら)の御簾(みす)が巻上げられて、猗(なよ)やかな女人がこれも唐服を着て腰掛けていた。

その女人は“朕は氷高(ひたか)である。そちの申し出を聞いて私も先年薨去された藤原大臣に会えるのであれば黄泉路(よみじ)へ往(い)ってでも会いたいと思っている。今日は藤原大臣の跡(あと)を継ぐ右大臣を漸く決めることが出来るに至った。私のような女帝であると藤原大臣は大層頼り甲斐(がい)があり、全てを任せていたのであるから、跡を継いでくれる人物を誰にするかについては、決心するまでに本当に時間が掛かった。今もし藤原大臣(ふじわらのおとど)に会えるのなら、この人選が誤りではありませんことをお聞きしたいと願っております。そちは藤原不比等公にお会いになると云うことだそうであるから、是非会って私が後任を長屋王に託したことを伝えては貰えまいだろうか。”元正天皇は猗やかさの中に気品を湛(たた)えて厳(おごそ)かにも思える声でお話しになった。

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