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2017年7月12日 (水)

北円堂の秘密・その15(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

京介は自分が黄泉路(よみじ)に行けるのか、どうすれば往(い)けるのかさっぱり分からないながら、“畏(かしこ)まりました”と畏(かしこ)まって答えるしか術(すべ)も無かった。京介の返事をお聞きになると元正天皇は退席をされ、その両隣の御座(みくら)の中からも少しお年を召(め)した女人が2人ご退席をされた。女官は元明太上天皇と橘三千代さまであると云った。居並んでいた群臣たちが引き揚(あ)げると、あとは片付ける仕丁(しちょう)と奴婢たちが忙しく立ち働き始めた。その場を追われるように大極殿の外に出ると流石に日差しが眩(まぶ)しく感じられた。衛士は全てを誰かに承(うけたまわ)っているのか、京介に次に参りましょうと、佐保路口の方へ歩き出した。小さな門を出ると幌付きの2頭立ての馬車が用意されていた。“此処からはこれにお乗り下さい。”と京介と女官を乗せると、自分は馬丁(ばてい)の隣に座って馬丁に出発するように指示した。馬車の幌に一部分、簀(す)の子(こ)窓があり、外部がよく見えた。佐保路を東に向かうと大きな築地塀のある通りへ出た。衛士が此の築地塀の中が藤原大臣の邸であったと説明してくれた。暫くして右に曲がりまた大きな築地塀のある処に出た。これは長屋王のお邸であるとのことであった。邸の外れを左に曲がり“山階寺にこれからご案内します”と云う声がした。しばらく一条通りを東へ佐保川に架(か)かる橋の手前の坂がきついのか2頭立ての馬車ではあるけれど馬丁が馬に鞭(むち)を入れた。欄干(らんかん)のある大きな橋の上に至ると馬車が突然止められた。“馬車を下りてください”と衛士は云った。京介が馬車を降りると天気が正月どころか夏のようで暑かった。橋の東の袂(たもと)に一台の牛車が止まり、牛車の従者が木陰で涼んでいるのが見えた。衛士は京介と女官を牛車まで歩いて連れて行った。牛車の中には初老の高官らしき男が乗っていた。よく見ると目を瞑(つぶ)っている。今度は女官が云った。“藤原不比等公は昨年83日この地で卒(そ)っせられました。今ご覧頂いているのはその日の幻影で御座います。これから私たちは不比等公が生前に私邸としてお住みになっていた外京の山階寺へ参ります。”3人が馬車に戻り佐保川に架かる橋を下りて牛車の処まで来ると牛車はゆっくりと動き出した。馬車は牛車の歩みに合わせて飾り金具を揺(ゆ)らせながら牛車の後ろに従った。可なりな時間を掛けてゆるゆると牛車は春日野の坂を東に登った。しばらくすると大きな砦(とりで)のような城が現れて扉が開かれると牛車と馬車はその中に吸い込まれるように導かれた。また暫く時間が過ぎて馬車の中で京介が待っていると衛士の声が外から“ご準備が整いましたので、お会い下さるそうで御座います”と伝えた。京介はそれが誰であるのか誰が会ってくれようと云うのか、藤原不比等公は半年も前に薨去されたのにと思ったが、その疑念も僅かで消えた。馬車を降りるとそこは平城京を守るための軍団の駐屯地の中であるらしかった。とある建物に案内されて階(きざはし)を登る際に西側を望むと塀の向こうに遠く巨大な平城京の街が広がっているのが見えた。階を7段程登り時計回りに外廊下を歩き裏手から衛士に続いて建物に入ると中は少し暗くて目が慣(な)れなかった。女官に手を引かれて更に奥の部屋に入ると囲炉裏(いろり)が切ってあるのか、火が燃えており、明かりも兼ねているようであった。排気が工夫されているようであり煙たくもなかった。目が慣れて囲炉裏の側(そば)を見ると、先程牛車の中に乗っていた初老の男いや藤原不比等公らしき人物が眼光をキラッと光らせたように思えた。“藤原不比等公は薨去されたのではないのか”と京介が心に想ったと粗(ほぼ)同時に、囲炉裏の側の不比等公は口を開いた。“案じるでない。近(ち)こう寄るがよい。”と云われた。衛士と女官と京介は四角く切られた炉端に行き、京介は正面に女官は左側、衛士は右側に陣取ることになった。炉に活(い)けられた炭(すみ)が時々爆(は)ぜる以外はとても静かであった。不比等公は京介を見据えると“そちはわしに何か尋ねたいことがあって来たのであろう、まずそれを申してみよ。”と宣(のたま)った。京介は俄(にわ)かに言語障害者になったかのように、一度に多くのことが想い浮んで口が間誤付(まごつ)き思い通りに口から言葉を発することが出来なかった。それでも何とか元正天皇に託された質問である“藤原大臣の跡を継ぐ右大臣に長屋王を任じましたが、この人選が間違っているなんて事はないでしょうね。藤原大臣にそのことを尋ねてきて欲しい。”との内容を漸く不比等公に話を聞いて貰った。不比等公は暫く考えた風であったが、“長屋王なら間違いはないだろう。適格な良い人物とわしは認める。”と答えられた。“わしがこれまで気に掛けて居た事は、唐国の律令の制度を取り入れた時、科挙の試験は取り入れなかったのだが、このことがどのような結果を生むかについて、自分の存命中には確認することが出来なかったと思っている。人は国の民なら誰でも科挙の試験を受けて官僚に登用されるという全てに同様な登龍門があれば、それに受かった人が国を治めるのであれば納得もしようけれど権門や世襲による権力への関わりについては、すっきりしないものを感じるであろう。”

“天竺はちと遠いが、唐(から)の国では史書を見るとこれまで多くの王朝が勃興しまた滅亡している。しかしその王朝の盛衰の理屈は明瞭であり世々の乱れは王即ち皇帝の徳が無くなってきているのであり、新たな徳を持つ者が天に見離(みはな)された古い王朝を倒して新しい王朝を建てることが天の思し召しであると云う論理でこれまで遣って来ている。その度に古い王朝の生き残り即ち落ち延びた人々は、新天地を求めて周辺の諸国に亡命渡来してきた訳であり、日本は何波(なんぱ)にも亘(わた)るそれらの渡来の民が造り上げた国だと云える。従ってじゃが、日本ではそう云うような国の興亡を繰り返すとすると、日本より東には海が広がるばかりであり、倒される側の人々が亡命し渡来する地はない。これが唐と日本の違いであるとわしは考えた。ではどうすれば宜しいか。考えてみると不思議な事に日本には和の精神と云うものがずっと前からあり、諍(いさか)いをするのではなくて、出自の異なる多くの民が極東の地で生活を続けていくためには、易しく云えば仲良く暮らすのが一番だとされてきたのであろう。”

“唐や隋と全く同じ律令制度では日本に似合わないと思ったが故に科挙の試験は止めにして、代わりに学問所は都にも地方の国にも多く作ることにしたのじゃ。全国から優れた文人や武人を推薦し都に送り込むのは国司の仕事とし、都に集めた文人や武人を学問させたり訓練させたりして更に磨きをかけ、それらを国の政治のために自在に駒として動かす支配層については、今のところ天智天皇や天武天皇を支えてきた有能な支配人脈を貴族化して日本国を運営する道を選んだのじゃ。しかし、ここで少し問題があってな。これらの支配貴族の子弟が長ずるに及んで自身の父祖と同じように中央政界で生きようとすると同じ優秀さを引き継いで生れていれば良いのじゃが、これが千差万別であるものだから、無用な権力争いが屡(しばしば)起きてしまう恐れが大きくて実際にそれは起きておるのじゃ。科挙の試験で選ばれた人が上に立つのであれば人はそれを認めあるいは我慢もするのだろうが、なまじ権勢家に生れ育つと不出来な身でも自身の父祖を見て育つが故に自分の実力を錯覚してしまうことが本当に多い。人間の性(さが)とも云えるのじゃけれど、斯(か)く言うわしも、父・鎌足のことはよう周りから聞かされもし、この父を超えるにはどうすれば良いのじゃろうと自分の器量の小ささを嘆いた時期もあったのじゃ。

“こうして悩んだ末に思い付いたのが支配層の中での権力争いは血脈相争うが如きであっても防ぐ手立てがないのは仕方が無いのであって、それがために日本の国が分裂するようなことがあってはならない。嘗て唐の史書や百済の史書を読み知った事は、折角の一つの国が三国に分裂したりして互いに相争う時代が長く続くと民が疲弊するばかりで、世の中が栄えて行かないだろうと。支配貴族同士が身内で争うだけならば、国が分裂するような悲劇は起きない。唯そのためには人々にとってこの海東の蓬莱(ほうらい)の国、嘗ては倭国と云ったこの日本が出自・続柄の異なる人々全てにとっても同一の国であると云う共同体意識がなければならないと考えたのじゃ。即ち国を動かすのはその時々の政権を掌握している支配者であり、それが権力と云うものであるが、それだけではなくて、その権力を良しと高みから認めて呉れる権威なるものが必要であるのだろうと。それを唐・天竺では天の神とも呼んでいるようじゃが、日本では天皇を天津神(あまつかみ)の子孫であると云うことを、日本の誰もが分かるように平易に書き記(しる)したのじゃ。本当かどうか疑う向きもあろうが、年が経てばハッキリと神話が定着すると信じておる。そのために他の氏族の持っていた書物は焼き払わせたのも事実じゃ。これより東にも南にも陸地が無くて海しかない蓬莱島で、渡来の民が今も続々と詰め掛けるのであるから、受け入れて荒地への入植を親切に手伝い、日本の国を豊かにすると云うことに力を入れるためには、国を2分割したり3分割したりするような愚を避けねばならないと考えたのじゃ。極東の文化果(は)つる地であったのにも拘(かか)わらず、今では立派な国として日本の事を唐も認めてくれているのじゃから。律令制度を整えて国の形は造ったものの建国の精神については天武天皇の御世(みよ)においても未だ完了してはいなかったのじゃ。”

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