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2017年7月14日 (金)

北円堂の秘密・その17(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

“これにより、科挙の試験がなくとも、優れた人物の少ない日本じゃから科挙などせずとも優れた者は地方の国から都に集めればそれで良いのじゃ。また、わしの時代の政権を支えた者の子供たちにわしと同様に政権担当能力があるかどうかについては、先にも云ったように、互いに政権争奪の権謀術数の限りを尽くして勝ち残ったものが政権に就くと云うこれまでの弱肉強食の世界と云う訳じゃ。”京介は聞き疲れて頭が朦朧(もうろう)としてきたため、忘れてはいけないと、興福寺の北円堂のことを尋ねておかねばと心を引き締めた。そして漸く不比等公に尋ねた。

“不比等公の祀られることになる山階寺の八角円堂の御廟について、公は何かお考えがありましたので御座いましょうか。”藤原不比等公は暫くお考えになり、次のように話された。“先にもふれたと思うが、わしの平城京での10年間は、日本国の史書を新たに編纂する事に尽きた。そのために集めた昔の史書は、用済みになれば廃棄せねばならない。しかしわしはわしの物として書写した史書の類を燃やすに忍びず、わしのこの山階寺の山荘に持っておる。これをわしが居なくなった後にはこの地にある昔の古い墓の石室にでも納めてその上にわしの廟堂でも建てておけば誰も暴(あば)いたりしないだろうと申し遺してあるのじゃ。わしがそのように考えるのは、遠い先には此(こ)の国とか彼(か)の国と云う区別が無いような時代が来れば日本国の共同体幻想の呪文が解けなければならないじゃろうから。わしの創り出した建国精神の手の内も明かさねばならない。そのためにわしが下敷きにした史書の類は一通り密封して遺しておくこととしたのじゃ”

“それが1000年先か2000年先かは分からぬが、人は国同士が争うことの無い広い心で暮らす時代が来るやも知れぬ。その時のために、分からず屋に手品の種を明かすことも重要と考えた次第じゃよ。”

“わしは墓など要らんと思うておるし、廟堂もわしを祀ると云うてもわしの化身と云うことにして弥勒如来でも祀っておくようにと申してあるのじゃ。弥勒は羅馬国で流行(はや)っておったミトラ教の教主じゃそうじゃが、唐天竺でも人気が高くてな、今では弥勒菩薩として彼方此方にある。山城の太秦(うずまさ)の半跏仏もそうだが斑鳩の半跏仏も同じじゃ。まあ弥勒菩薩が如来となられるまでわしらの子孫が生き永らえられるかは疑問の点もあるので、わしは菩薩ではのうて弥勒如来として廟堂に据えよとも云っておいたのじゃ。”京介は興福寺の北円堂の本尊が弥勒如来であることを思い出していた。そしてまた、今度は次々に思い浮かぶ質問を不比等公に浴(あ)びせてみたくなった。

“不比等公は書紀に名を見出せる31の歳まで、何処で何をなさっておられたので御座いましょうか。”不比等公は暫くまた、何かお考えのようであったが、次のように口を開いた。

“何も隠すことはないのじゃが、大友皇子いや弘文天皇が大海人皇子(天武天皇)との政権争いに破れた壬申の乱が有ったのは知っておろうな。その時わしは14歳になっておったが完全な大人ではない故、近江朝廷の子弟ではあったが流罪措置の扱いで命を救われたのじゃ。田辺史の元に居ったのじゃが、東国へ行くことになっての。車持ちの君の母上の出所でな、相当に遠い処であったのじゃが、馬に乗ったり都とは違(ちご)うて面白い暮らしが出来たのじゃ。史書などはなくて毎日外で暮らして居ったわ。そこには兄の真人が既に居て一緒に暮らすことが出来たのは望外の幸せであった。兄は永らく渡唐していて帰国してからも直ぐに都から姿を消していた。父・鎌足の配慮にて兄は壬申の乱の影響を受けずに済んだ訳じゃ。わしはその兄・真人の東国の田舎の邸で1年ばかり暮らしたが兄の唐土の話しを聞くに付け自分でも大唐の地を踏んでみたいと思うようになった。わしはその翌年、新羅を経由して高句麗に至り陸路にて唐土に至った。日本国の新羅の出身氏族は本国とずっと繋がりを持っており、通行手形や路銀の工面はその人々に世話になり、彼の地では陸路や沿岸海路を行く商人の道を進んだのじゃ。新羅の国から唐土に入るについては新羅の人々が新たな通行証を発行して下さり、宿も路銀も不足はなかったのじゃ。この話は長(な)ごうなるでな。”

“唐土には5年居たのじゃ。そうして日本国に戻ると、瀬戸内の志度に住んでみたり、紀の国に居たり、山城の加茂に居たり都には戻れないのじゃから、流罪とは都の所払いの刑のようなものじゃから。地方の国を転々としておったのじゃ。皆(みな)中央政界では力の無い氏族の領地のような処であったが、わしは流刑の身を哀れに思われたのか、何処においても大事に持成(もてな)して貰(もろ)うたものじゃ。何故かと云うと田辺史の処でみっちりと史書の典籍を教わった所為で、文字が読めて書けたものじゃから、勿論新羅でも唐土でもそれが役に立ったのよ。唐土ではこの技(わざ)に磨きを掛けたのじゃ、嫌いではなかったからの。それとわしの父・鎌足の座右の書であった六韜も相当に役だったのではないかと思われる。人生の処し方を全て迷った時は六韜に答えを求めて来たのじゃ。矢張り唐土の人々の知恵には凄(すさ)まじいものがあって、人生の選択を誤ったことはなかったのではなかろうかな。この世を生き抜くには敵は作らないに越したことはないと云う訳で、皆が持て囃(はや)している者共の邸には近寄らず、落ち目となっていた旧(ふる)い氏族の処で匿(かくま)って貰い、やがてはわしが復権する時が来れば何か良いこともあろうよと云う位の、鷹揚(おうよう)な気分でわしは好きなだけ養って貰いそれぞれの邸でそこの子弟や娘と仲良くなっていったのじゃ。ところが運命と云うものは自分にも分らぬものだが、天武天皇が崩御なさるとわしにとっては姉の様な存在の持統天皇がわしの都所払いを取り消してお側近くに来るようにと云って来たのじゃよ。それが判事になる数年前のことであった。”

“以降わしは持統女帝の相談相手となり、正(まさ)しく父・鎌足と天智天皇のように、内つ臣(うちつおみ)に徹して仕えて来たのじゃ。大唐の下に平和な時代が続いておるのじゃから。日本国でも富の蓄積が進んで国庫は品物で溢(あふ)れるような時代を迎えておる。新羅と対抗するなどしなければ、これからも日本国は平和に栄えるであろう。わしは次代の者共に日本という纏(まと)まり感を建国の精神として遺すことを目指して史書を編んだのじゃ。今を生きておる者は書き加えた嘘(うそ)も見抜くじゃろうが、孫の代にでもなれば、この百済の借り物である神話も日本国に根付くだろう。下敷きにした史書は処分するのじゃから分かりようもなかろうて。但しじゃ、遠い先にわしらよりも優れた者共が現れ居出て遠い昔の話などを詮索するようなことがあれば、一つくらいは遺しておこうと考えもした。それでじゃ。此処の山階寺の地の石槨(せっかく)の上に八角円堂でも建立して、石槨に下敷きの史書を秘蔵することを思い付いたのじゃ。”

“ようく聞いて欲しいのは野次馬根性で暴(あば)いては困る。一度この下敷きの史書に日の目を当てれば日本国の神話の共同幻想はお釈迦(しゃか)になってしまう。日本も百済も新羅も高句麗も違いの無いものとなってしまうのじゃ。それではわしの考えた蓬莱の島に日本国を建国したという神話が無くなって仕舞い、人々は寄る辺を失い、自信をさえ失いかねないと云うことじゃ。人間の生きる力を合わせて立派な国を築いてゆくためには建国の精神が注入されておらねばならないのじゃ。このような大唐の果ての蓬莱島の日本国が大唐と同一に帰するような時代がもし、遠い将来に来るのであればわしの廟堂を暴いて下敷きの史書を取り出しても良かろうが。さて、そのような時代が来ることがあるのじゃろうか。わしは中々に難しいと思うておる。”

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