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2017年7月 3日 (月)

北円堂の秘密・その6(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

中金堂の回廊基壇に腰掛けて五重塔を見上げていると暮色と入れ替わってライトアップの光線が五重塔を照らし出し始めた。通年夜間ライトアップされる五重塔の前はこれまでも思索に疲れた時には夜でも散歩に都合が良いのでよく通(かよ)っていたが、北円堂のことはあまり意識することはなかったのだ。

再建を重ねてきた北円堂であるが、本尊は藤原不比等の化身ともされる弥勒如来と云われており今では運慶仏として美術的評価も高く明治期には正岡子規も俳句を詠んでいる。京介は仏教美術にも関心がなかったので余計に北円堂のことは知らなかった訳である。ライトアップされて五層の屋根を力強く支えている木組みを見上げながら司馬遼太郎の随筆に「興福寺五重塔は美的センスに欠ける」と書かれていたことを思い出していた。見慣れるとそうでもなく愛着の湧いてくるもので興福寺五重塔は京介の頭の中で古都奈良のイメージを代表していた。少し寒くなってきたのを切りにして、京介は五十二段を降り、これもライトアップされている猿沢池を時計回りに一周して、三条通りの南都銀行の手前から東向商店街に入り、老舗の中華店で夕食を摂(と)ることにした。東向商店街には数軒の中華店があるのだが忘れずに覚えていた店名の中華店を難なく見付けて入店した。ご主人に自分でも出土の経緯(いきさつ)を聞いてみたいと思ったが、今日は考えも纏(まと)まっていず、急いではお困りになるだろうと思いそれは止めた。

古都奈良の中華店とは遠方の観光客などは不思議に思われるかも知れないが、奈良の名物料理と云っても有名なものはあまりないので、関西圏とすれば神戸の中華街の延長上に古都奈良でも中華店の営業が成立してきたのであるようだ。ともかく奈良は明治に開国した日本にとって富国強兵を目指して軍備を整えるために外貨の獲得は最重要課題であり、絹の輸出と共に東京の日光・箱根と並んで京都・奈良の観光に力を政府は入れて来たそうである。外国人観光客の誘致のために奈良ホテルは鉄道省が建てたそうである。

結構好物である「カニ玉」や「エビチリ」を摘(つ)まみながら、京介は「さてどうしたものだろうか」と頭を巡らせたが、老舗の中華の味に占領された脳が回転するわけもなく、今日はこれまでと無理に考えることは止(よ)すことにした。頭も少しは休めてやらないと良い知恵は浮かばないものであることを京介はよく知っていた。結果が出るかどうかは別にしても。

3 不比等の生涯

明くる日は史美が藤原不比等について少し講義してくれることになっていた。午前9時からと時間指定を受けた京介は教養棟のH101号講義室に向かった。9時丁度であった。講義室は広すぎる感があるが、黒板とか教壇とかの設(しつら)えが手っ取り早く藤原不比等の温習(おさらい)をするには向いているのだろうと京介は思った。まだ鍵の下(お)りている春休み中のため、鍵を取りに行っているのか史美はやや遅れてやって来た。

「ごめんなさい時間をこちらで決めておきながら」と云いつつ小振りの講義室の扉を開けて天井照明を前の方だけ点灯した。

俄(にわ)か仕立てではあったが、史美は京介一人を受講生として教壇から、まだ助手の身であるが元気よく藤原不比等についてその生涯のアウトラインを話し始めた。「藤原不比等と云う人はね、あの有名な藤原鎌足の次男として西暦659年に生れているね。そして720年に没しているので数え年で云えば62歳まで生きた人物と云うことね。最後は正二位右大臣にまで登りつめているわ。勿論、追贈位は太政大臣を貰っているわ。諡(おくりな・贈り名)は淡海公・文忠公と色々あるの、恐らく淡海公は近江の国司でもしたことがあるらしく、不比等が近江国と何らかの深い係わりを持っていたことが推察されるのよ。また、文忠公の場合は大宝律令制定に係わったことを褒(ほ)め称(たた)えているのだと考えられるわ。律令と云うのは膨大な法律の六法全書のようなものですからね。残念ながら大宝律令の本文は残っていないのだけれど、後の養老律令とか平安初期の遺文に結構、断簡として残っているの。文献史学的に藤原不比等を評するならば第一は「ミスター律令制度」といったところかしら、日本の古代律令制度の屋台骨をしっかりと構築した中心人物というところね。隋唐の律令を真似て古代日本に律令制を定着させるには、先ず武力による日本の平定が第一ではあったんだけど、律令制度を根付かせるには文字の読める人、即ち今で云う官僚が必要とされたのよ。だから、律令の発足と官僚の発生は同時とも云えるわね。藤原不比等はその総元締めであり、これも今で云えば総理大臣というところかも知れないわ。勿論、総理大臣と云える期間は710年に平城遷都して720年に没するその最後の10年間ということになるけれど、可なりな長期政権だったということになるのよね。また、平城京に遷都する前の藤原京でも大納言クラスのうちから参議として何くれとなく活躍していたようです。更に更に遡(さかのぼ)るとその前には持統天皇の側近として若いうちから持統天皇の30数回に亘(わた)る吉野行幸にも全て随行していたのではないかと考えられるの。その証拠としては日本初の漢詩集である懐風藻に藤原不比等の吉野に遊ぶという詩が残されているのよ。」

「これでアウトラインは話が終わったようなところだけど、次は少し順を追って藤原不比等の生涯を追跡しておくわ。先ず藤原不比等の父親は藤原鎌足と先程云ったけれど天智天皇(てんじてんのう)の落胤説もあるわ。身籠(みごも)ったままの妃を臣籍降下させて藤原鎌足が天智天皇から貰い受けたという話があるのよ。勿論、日本書紀に書かれているわけではなくて、興福寺縁起などにふれてあり母親は鏡大王(かがみのおおきみ)という名前なの。育ての母親が誰だったのかという線からすると藤原鎌足の実質的な正室が車持君の娘であったことから、一般的には車持君とされてきたようよ。また、幼い時に中国の歴史を深く知る人物の田辺史(たなべのふひと)という人の家に預けられていたので、史(ふひと)という名前を継いだのではとも考えられており、その場合の育ての母親は田辺史の奥方ということになるのでしょうね。序(つい)でに云っておくと、藤原氏のような家柄であればそれこそ家の歴史を示す書籍があっても可笑しくないのでして、実は藤氏家伝(とうしかでん)書というものが存在するのです。がしかし、誠に残念なことに藤原鎌足・伝はあるのですが藤原不比等・伝が無いのです。藤原不比等の孫に当たる藤原仲麻呂が編纂させたので藤原不比等・伝が無かった筈はないのであるが、無いのです。しかし、藤原鎌足・伝は残されているので藤原不比等の生れた時代の状況は、それから読み解ける部分も少しだけれどあるわ。まあ、父親の策士としての活動は日本史においては、良い人なのか悪い人なのか賛否両論で、未(いま)だに結着が付いてはいない問題があるのはご存じでしょ。そう、蘇我氏滅亡を天智天皇と共に企てたのって藤原鎌足と考えられており、結局後年、藤原不比等の代になってみると、かつての蘇我氏のポジションに藤原氏が成り替わったかのように見えるのよね。蘇我氏が天皇を蔑(ないがし)ろにしたとか日本書紀には書かれているけれども、実際はどうだったか藤原不比等が父親の藤原鎌足、否(いや)実の父と思った天智天皇の陰謀を正当化して書いたとは十分に考えられるのよね、まあ証拠はないんだけど。」

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