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2017年7月 4日 (火)

北円堂の秘密・その7(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

「それから藤原不比等は藤原鎌足の次男とされており長男に真人(まひと)がいるのよ。藤原真人は幼いうちに遣唐使の学問僧として唐に送り出されてしまうのよ。67年在唐して日本へ帰国する時は定恵と名乗っているの。実は藤原真人にも落胤説があって、当時藤原鎌足が中大兄皇子と共に仕えていた孝徳天皇の息子だったと云うんです。この定恵は帰国して直ぐに暗殺されたと史的には解釈されているけれど、藤氏家伝・書では弟の藤原不比等と共同して父・藤原鎌足の墓所を定めたり今の談山神社に祀ったりしているのよ。また、東国の車持氏の領国に至る道中の山梨県の山中の温泉宿には定恵の発見した湯治宿と伝わるところもあるようだわ。ただ、定恵は表には全く出て来なくて藤原氏の2代目は結局、藤原不比等ということになるには間違いのないところですね。」

「次に生誕地とはどこかに移ると、父の鎌足は今の明日香村の北部とされ、産湯の井戸も残っており、藤原不比等の生れた西暦659年ならば中大兄皇子と行動を共にしていた藤原鎌足の居場所は飛鳥京ということになるので、不比等も父・鎌足の生地に近いところで産湯を使ったと考えられるわね。この飛鳥の地で幼児の時代を過ごして、西暦667年に天智天皇が近江の大津京に遷都してからは、父・鎌足に随(つ)いて近江に移ったんでしょう。多分物心が付いたのは近江国の大津京の家であったのでしょうね。贈り名の一つが淡海公ですから、後年余程藤原不比等は近江国を自身の出身国のように思っていたようですから。近江には鏡女王の名に由来する鏡山とか鏡神社が今もあるし、不比等が実の母・鏡女王を慕う郷愁のようなものが感じられるわね。今の彦根城が金亀城とも別名されるのを知っていますか。金亀の名前は古代からのもので、藤原不比等が近江国の国司をしたときに彦根城の観音台に住んだとのことで、子の房前(ふささき)が黄金の亀の背に乗った聖観音を本尊として当地に一寺を建立したと云う伝説があるの。また近江八幡の日牟礼(ひむれ)八幡宮には持統5年(691)に参拝した藤原不比等が32歳頃に来て詠んだ和歌天降りの神の誕生の八幡かもひむれの杜になびく白雲が残されているわ。古代でも人間はやはり物心(ものごころ)ついた頃に見た風景の地に多分郷愁を抱くんじゃないかしら。藤原不比等にとっての故郷(ふるさと)はきっと近江国だったんだろうと私は思うわ。それと唐突だけど天皇の系譜が近江の息長(おきなが)氏の血縁との説も関係ありそうだけどこれは気にしないでいいわ。」

「斉明5年(659)に飛鳥に生れた藤原不比等であるけれど、ひょっとすると鏡女王の里とも考えられる近江国で生まれ育てられていた可能性もあると思う。古代は母系社会なので父親が活躍している地に必ずしも一緒に居たわけでもない。また逆に戦(いく)さにでも妃を連れて行く時代だから、同じ場所にずっと居るわけでもない。とにかく貴種であれば列島を子供の頃から縦横に移動していたとも思われる。大津皇子の大津は斉明天皇の新羅遠征軍が九州の那の津に駐屯していた時に母の太田皇女がお生みになったので、その地の“津”の字が付いたと云われているの。」

「藤原不比等に関する飛鳥京での記録も近江の大津京での記録もどちらも何も存在していない。ただ、壬申の乱が勃発したとき大津京にいたとは考えられるのですが、それが養家の田辺史の家なら、河内飛鳥の地であったか、今の京田辺市の辺りであったかと思われるし、山階寺(やましなでら)の父・藤原鎌足の邸に居たのなら京都市山科区になるわけです。壬申の乱では一族の氏長である中臣金が近江朝廷の高官(右大臣)であったため、大友皇子自刃の後、捕えられて死罪となって仕舞うのよ。でも藤原不比等は13歳と若かったせいか、それとも逃げたのか幸運なことに罪には問われなかった。罪人のリストに登場しないことでわかるんだけど、それから16年の長きに亘(わた)り、文献史学の世界には一度も関係者として名が出てきません。漸く持統3年(689)になって31歳となった藤原不比等が彗星(すいせい)のように判事に任命される形で登場するのよ。」

「この31歳から養老4年(720)に62歳で没するまでの30年間は時々正史に名前は勿論登場して、藤原京と平城京の2回の遷都を行い右大臣にまで登り詰めます。また、藤原不比等は艶福家と云えるのかどうか多くの豪族の娘と契りを交わして、後の有名な藤原氏の四家の祖となる息子を儲(もう)けています。」

「中でも少し変わった話が伝わっているのは次男の藤原房前を生んだのは実は香川県志度の海女であり息子の出世のために母の海女は夫の藤原不比等に頼まれて、海神の宝物を採りに云って成功はしたけれどそれが元で絶命したと、かの地には伝説として伝わっています。また長女となる藤原宮子の場合は今の和歌山県の道成寺に近い漁村で生れた絶世の美女で、文武天皇のお后となっています。藤原不比等が壬申の乱からぷっつりと都から姿を隠した時代あちこちで入婿(いりむこ)して子を儲けることが続いたようです。今とは違って、母系社会では都の貴種はその地の豪族にとっては有難い娘の結婚相手であったことでしょう。それを良いことにしてかどうか分かりませんが、藤原不比等はとても広範囲に結果として身内を作っていったことになるから不思議なところがありますね。日本書紀に書かれているように持統朝では女官の県犬養三千代と懇(ねんご)ろになり、三千代は夫(美努王)を離縁して娘を生んでいるわ、光明皇后になるんだけどね。普通なら多くの女性と浮名(うきな)を流せば、女性の敵とされるのですが、藤原不比等の場合はあらゆる不倫行為が全て藤原不比等なら許されるかのようになってしまっていたかの感があるわ。歴代女帝である持統女帝も元明女帝も元正女帝もすべて藤原不比等を憎(にく)く思っていなかったようで、政治的には最も信頼を置いていたと考えられるわ。まあ、男性の“英雄色を好む”と云った言葉が全く当たり前のように思われていた古代世界であり、平安時代よりも遡(さかのぼ)る飛鳥・白鳳の時代だから当然だったとも云えるけれど、まあさぞ藤原不比等は女性の誰が見ても魅力的で母性本能を擽(くすぐ)られる存在だったようですね。ただ、竹取物語に登場する藤原不比等の場合には車持皇子という名だけれど、かぐや姫の難題に答えるべく贋(にせ)の宝物を作らせた職人に代金も払わなかったというとても貴種ではあるが浅(あさ)ましい人物として描かれています。多分この竹取物語を書いた人は藤原氏の繁栄を妬(ねた)んでいた人物で恐らく男性ではないかと思われます。元明女帝などは藤原不比等の没後一年もしないうちに後を追うようにこの世を去るのですよ。元明女帝は草壁皇子の妃だったのですが、早くに寡婦(やもめ)になっていたので、藤原不比等が、夫代わりだったのではと云う説を吹聴する史学者もいる程です。草壁皇子の母親である持統女帝の公認の下でね。藤原不比等って男の人だったら羨(うらや)ましいのじゃないですか、ね、上津先生と名指しされて、一方的にまくし立てられて面食らっていた京介は、漸く一息入れることができると安心した。」

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