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2017年7月 5日 (水)

北円堂の秘密・その8(大町阿礼・作)

歴史ファンタジー小説・北円堂の秘密(大町阿礼おおまちあれい・作)

不許複製(コピー不可)、小説の内容はフィクションです。

「ところでこれまでのところで何か上津先生からご質問はございますか」と云われて、京介は図書館の一般図書で自分なりに調べたところ藤原不比等という人物の事績は先ずは大宝律令となっていて、他は直接に関与したとは書かれていないので、史美が説明してくれた藤原不比等のアウトラインでも十分にとりあえず肉付けされたような気がしていた。

そうそうと京介は一つだけ質問をした。「さっきの“男として羨(うらや)ましいですか”ってことだけど、何かの本で紫式部の源氏物語の主人公・光源氏のモデルは藤原不比等ではないかと書かれていたことを思い出したけど、どうなんだろう。」「そうね、平安時代に藤氏家伝の不比等伝が残っていて紫式部がそれを読んでいたとすれば当然その可能性が濃厚と云えるでしょうね。」と史美は大きく肯(うなず)いた。「では残りの補足的な話をしておくことにするわ。」「幼少期に養家として藤原鎌足が英才教育を期待して預けた田辺史の家では15歳になるまでに中国古典は粗(ほぼ)読み尽していたと考えられるわ。また、壬申の乱の後、31歳で持統朝に登場するまでの間は、兄の定恵と同じく大唐帝国に渡って、彼の地で実際の律令社会を勉強していた可能性もあるようだわ。興福寺には三種の宝物というのが寺宝として伝わっているんだけど、全部、中国・唐からの渡来品で藤原不比等の妹が唐の皇帝の妃の一人になっていたということで、その妹から送ってきたのが今に伝わる三種の宝物ってことなの。これが送られてくる途中で瀬戸内海まできたときに海神に一つである玉を奪われてしまい、それを先程話した次男の藤原房前の母親の海女が海神から取り返して来るというお話になっているわ。三宝の内二つは今でも興福寺の国宝館にあって海神から取り戻したと云う玉は琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)の宝厳寺(ほうごんじ)にあるというわ。これも藤原不比等がどこかで近江国と繋がりが深かったことを示していると思われるわ。」

「女帝に信頼されていた証拠としては草壁皇子の佩刀(はいとう)を皇子の没後藤原不比等は預かっていて、文武天皇の即位の時に渡しているわ。また文武天皇が没するとまたその佩刀を預かって、今度は聖武天皇の佩刀になるのよ。また用心深い人物であった証拠としては最後まで藤原不比等は左大臣を拝命せずに石上麻呂(いそのかみまろ)にさせておいたのよ。但し平城遷都に当っては石上麻呂は藤原京の留守官としてお留守番にされており平城京には来ていないので藤原不比等の平城京時代(710720)の10年間は完全に右大臣・藤原不比等が政権の第一人者だったと云えるのよ。そして712年の古事記撰上、720年の日本書紀完成も当然その10年間の最初と終わりを飾るべく藤原不比等のこの国を想う気持ちが国の形即ち国体を史書で固める最後の大仕事をしたに違いないと状況証拠が無いけれど今では多くの学者もそう考えているのよ。

「後は、平城京遷都に際して藤原不比等は外京の高台の一等地に厩坂寺を移して興福寺を創建したことと、平城宮の北東部に隣接していた藤原不比等自身の邸跡は不比等の没後暫く住み人無しの状態だったことが万葉集の歌(第3378)に山部赤人により詠まれているので分かるわ、“昔者之舊堤者年深池之水草生家里(いにしえの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり)”というものよ。そしてその地は娘の光明皇后が貰い受けて今は法華寺という尼寺になっているの。当時は光明皇后の慈善事業に使われて施薬院や悲田院の名で歴史の教科書に出てくる有名なお寺だわ。藤原不比等の考古学的見地からの痕跡としては藤原京跡から出土した荷札の木簡に右大臣とあったことと、藤原不比等の第2の故郷であったかも知れない群馬県に今もある古碑に711年の年号で右大臣と刻まれているの、多胡碑と呼ばれていて車持氏の車持が訛(なま)って群馬になったそうだけど、藤原鎌足が車持氏の娘を夫人としていたことと合わせて藤原氏の東国との繋がりを証明しているかのようだわ。また藤原不比等は平城京に春日大社を創建するに際して、東国の2武神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)を常陸(ひたち)と下総(しもうさ)から請来している点でも、良く分かるでしょ。軍事力の掌握は政権の安定にとって何時の時代も大切だったのよ。軍事力は保有するだけで威力があると藤原不比等は考えていたと思われるし、実際には軍事力を使う前に政治的交渉力で藤原不比等は政治を行っていたようね。藤原不比等の政権に居た時代には争乱は皆無に近いのですから。そういう睨(にら)みや人の配置にも多分長(た)けていたのでしょうね。藤原不比等って云う人はね。」

「藤原不比等のアウトラインはこんなところだけど、文献史学的には実際話をすることが出来ないの。但し外野に居る人は色々云っているわ。哲学者の梅原猛(うめはらたけし)先生とかね。でも史学会では相手にしないできたの。だってどのように推論されたところで何の証拠もなければ、出された仮説が正しいのかどうか、人文科学的にお答えする訳にいかないのですから。文献史学、特に日本史の世界は本当に窮屈なのよ。但しね、今回のように銅板とその文字列が見付かったということになると、途端にざわめき出すの。出番が来たってね。ただ、それでも判読できる文字数が少ない場合が殆どで、総合的知識でもって類推することが必要なの。場合によっては上津先生の力が十二分に発揮してもらえるかも知れないの。宜しくお願いするわ。明日は銅板の問題の銅板の文字列についてお話をしたいと思うので、今日はこれまでとします。」と史美は教壇を降りた。

4 銅板の文字列

その明くる日、京介が午前9時を少し回って講義室に着くと史美は何やらボードに書き込んでいた。

“淑気光天下薫風扇海浜春日歓春鳥蘭生折蘭人塩梅道尚故 文酒事猶新隠逸去幽藪没賢陪紫宸”

「これは奈良時代の勅撰漢詩集である懐風藻に残されている藤原不比等の詩で題は“春日侍宴応詔”と云うものよ。現代語訳は“温和な気が天下にみなぎり爽やかな風が海辺を吹いている麗(うら)らかな春を鳥は鳴き交わし芳しい蘭を高雅な士が手折っている調和のとれた政治は古くからのこと詩を作り酒を酌む御宴は新たな感懐である世を避けた私にも竹林の幽居を出て仕え不束(ふつつか)ながら皇居に参内している”といった意味よ。取り立てて気になる内容は見当たらないわ。でも銅板の両面ある片側にこの漢詩が刻まれていたのよ。ところどころ不鮮明であったり欠けたりしていたけれども淡海三船(おうみのみふね)か石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が751年(天平勝宝3年)にこの懐風藻を編(あ)んで呉れていたので発見は容易(たやす)かったわ。これでこの銅板が藤原不比等に関わるものであることは一目瞭然なの。でもね。もう片側の文字列が可なり不鮮明で読み取れる部分はかなり少ないんです。何とか読み取れた文字を羅列(られつ)すると“持 天去 百済之上表    帝記 旧辞 此地  秘     玄室藤   逝  不 開 莫  全隠    残  記    養老四年八月八日     ”となるのですけれど、今読み取れた文字はこれで全部です。レントゲンなどの科学的調査法の試(こころ)みはまだなので、もう少し文字数が増える見込みが無くはないけど、今は待ってられないし、これだけでも何か分かるかも知れないわ。私は女の直感かも知れませんけど藤原不比等が自らが関与した記紀編纂のバックデータの全てをあの世に持ち去ったことを云っているのではないかと思われるのよ。石室の中で今も藤原不比等はその史書に囲まれて眠っているのではないのかしら。」

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